アンナプルナBCトレッキング 4日、5日目 サンクチュアリを求めて

9月27日

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富士山の頂上と同じくらいの3700mにあるマチャプチャレBCのゲストハウスはキーンとした寒さで覆われていた。
腕時計のアラームが鳴り終える。寝袋の中からぬらっと手を出して腕時計を確認する。
時刻は6時を指していた。
目を開けると、レースのカーテンからオレンジ色の光がゆらゆらと揺れている。
寝袋から芋虫のように這い出る。湿った暖かさは、外気に触れるとすぐに何処かへ消えていった。
膝を曲げると、ふくらはぎがまるで針金でできているかのようにピンと張った。痺れるような痛みが走る。
まだ乾いていない靴下を無理やり履いて、泥まみれの靴を手に取る。
山に入ってからずっとぐっしょりと濡れている靴を履いた。足先から冷たさが刺すように上ってくる。
ドアを開けると、目の前には澄み切ったヒマラヤ・ブルーの空。
思わず天を仰いだ。いろんな神様に礼を言った。

 

 

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アンナプルナは朝日を浴びて、その姿を人々に魅せつけるように晒していた。
巨大な山塊は、ベースキャンプを覗きこむように囲んでいる。
オレンジ色の光の帯は、少しずつ少しずつアンナプルナを染めていく。
僕はカメラと水筒だけ持って一目散に駈け出した。

 

 

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マチャプチャレBCからアンナプルナBCまでは2時間ほどかかる。
なだらかな坂を駆け上がっていく。
薄い大気の中、ぜえぜえ言いながら手前の丘を越えると、4100mにあるアンナプルナBCのゲストハウスが小さく見えた。

 

 

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振り返るとマチャプチャレの全容がくっきりと見えた。
この角度からだと、魚の尾のような頂上が槍のように見える。昨夜、雲の隙間から天を指すように抜き出ていたマチャプチャレが、朝日を背に浴びながらどっしりと構えていた。

富士山の頂上を超えるような坂道を無邪気に駆け上がる。
寝起きと筋肉痛の体は、この空と景色の中では子供のように元気だった。

 

 

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アンナプルナBCはなかなか近づいてこない。
朝露でぷちぷちと輝く草を食む山羊たちの群れがあった。8000mを超す名峰アンナプルナには目もくれず、黙々と口を動かしていた。

 

 

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マチャプチャレに押し込められていた朝日が、やっと顔を覗かせた。
一瞬で青暗かった道が、強烈な光によって照らされる。
背中に驚くほどの暖かさを感じた。

 

 

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小さな水の流れ、ごつごつとした岩場、背の低い高山植物、その中をトレッカーが歩いて行く。
僕はヒマラヤ・ブルーの色濃い景色に見とれながら、忙しくカメラを動かしていた。
朝日はマチャプチャレを追い越していった。さっきまでダウンジャケットを羽織っていたのに、今や汗ばむような暖かさだ。

 

 

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景色に見とれながらも、何かに追われるように足早に駆け抜けていく。夏祭りの会場にだんだん近づいていくようなあのわくわくする感覚だった。

 

 

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アンナプルナ・ベースキャンプに辿り着いた。
4100mという高さにあるのだが、全くそんなことを感じさせない。周りはすべて8000m近い山に囲まれているからだ。
アンナプルナⅠ峰とⅡ峰の山並みが目の前に迫る。白い雪を被った山は威厳に満ちていた。

 

 

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ベースキャンプの後ろに行くと、たくさんのタルチョー(チベット仏教の旗)が吹き下ろす風によって靡いていた。
タルチョーは白い山と濃いヒマラヤの空の対比をぐっと引き寄せる。

 

 

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内院(サンクチュアリ)の真ん中で佇む。
この見上げる山に、今では考えられないような不格好で貧弱な装備でたくさんの男たちが立ち向かっていった。始めて8000m峰を征服したその日から、すでに60年以上の歳月が過ぎ去っていた。
彼らにとっては、今僕がやっと辿り着いたこの場所こそがスタート地点なのだ。
アンナプルナは別名「キラーマウンテン」と呼ばれるほど、たくさんの命を奪っている。見上げるだけではとてもそんな風には見えない穏やかな山容だけれども。

 

 

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アンナプルナBCは折り返し点でしかない。
この素晴らしい景色を十分堪能したら、あとは素直に来た道を戻らなければならない。
やはりここで生きていくのは、僕らには難しい。
トレッカーたちは天気とヒマラヤの山々に感謝しながらも、また来た道の方へ向かって歩き出す。

 

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MBCへは1時間ほどでたどり着いた。
荷物をせっせと仕舞い込む。
あまりの景色に何も食べずに駆け出していたので、ひどく空腹だった。
もう食べ飽きたクラッカーと豆を頬張りながら、ゲストハウスをあとにする。

 

 

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苦労して登ったきつい坂道も、今や単なる下り道。
ポイントごとに登りの時の苦しさを思い出しながらも、跳ねるように降りていく。

 

 

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5時間ほど黙々と歩いて2日目に泊まったBambooへたどり着く。
笑う膝を抱えて、なんとか降り立ったというほうが合っている。
なんせ朝から4000mの高さを往復3時間も歩いて、そのまま一気に降りてきたからだ。
4日目ともなると疲労が抜けなくなってくる。
雨続きで洗濯物は一切乾かない。この4日間、靴も服も常に湿っている。それに泥まみれのズボンと靴からは牛や馬の糞の臭いがなかなか消えない。
シャワー設備は用意されているが、ホットシャワーはもちろん有料だ。冷たい水で顔と足を洗うくらいで、あとは飯を食って寝るだけ。

この日は8時間も歩きっぱなしだった。
食堂にいたガイドに明日一日で下山できるか聞いてみたが、色好い返事は返ってこない。
明日に備えて十分ストレッチして眠る。

 

 


9月28日

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天気はまずまず。
とにかく今日は行けるところまで行く。
ガイドによるとBambooからNayapulまでは10時間以上かかるという。
ガイドブックにも所要日数7~8日とあるし、やはり5日での下山は不可能なのだろうか?

我々はどうしても今日下山したかった。
早く温かいシャワーを浴び、柔らかいベッドで眠りたいというのももちろんある。
でも一番は『肉と酒』である。


あれ?さっきの渋い昭和の登山雑誌に乗ってそうな自称ハードボイルドな文章は?
そんなの関係ねー!
俺達は肉が食いたい!ビールが飲みたい!ジメジメした山を降りて、好きなモノをたらふく食いたいんじゃ!
ああ、山という美しき精神世界をもってしても、この邪悪な欲望の権化を絶つことはできないのか。

 

なんせ山中は物価が高い。上に行けば行くほど高く、MBCのレストランメニューなどは日本並みの高さである。もちろん物資は人海戦術であるがためにそれは至極順当な値段であるのは肝に刻み込んではいるが、下界で60ルピーのコーラが200ルピーというんだから貧乏人には息苦しい場所なのだ。それにカメラなどの充電やシャワーやトイレも有料だ。
都市の束縛から逃れたと思ったら、今度は我々最大の泣きどころである財布を真綿で締め上げるような山の生活。
貧乏人は足を使え、考えるな、足を使え!走れ!翔べ!
とりあえず「悲しいけどこれ戦争なのよね!」と言ってみた。

 

 

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Bambooを7時半に出る。
ガイド連中にここからの下山は自分たちでもしんどいから嫌だなんて言われてしまったが、我々には秘策がある。
『物量作戦』である。
日本から後生大事に持ってきていたけど、使うのがもったいなくて結局今まで後生大事に持っていたポカリスエットを使う時が来たのだ!
しかも持ってきた全てを投入してやる。「粉末ポカリスエット」は「ヒマラヤのおいしい水(無料)」と混ざり合い、何とも豪華なヒマラヤンポカリスエットに進化した。
惜しげも無く資源を投入することによって、今日という日を乗り越える。
物量こそ最強というのは我々日本人のDNAに然と刻み込まれているのだ。

 

 

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ポカリスエットを補給しながら怒涛の進撃。
目指すはパリ・・・ではなくダンケルク・・・でもなく癒しのポカラの町である。
Bambooを少し行くとSinuwaまでの登りだ。
このアンナプルナトレッキングは前の記事でも述べたが、半端ないアップダウンが続く。
なので普通は楽ちんな下山でも、見事な地獄坂が待ち受けている。
しかもこの地獄坂のいやらしいのは、一度そこを降りているということだ。
一度降りているので、登りがえらくきついということは百も承知なのだ。

 

 

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そんな中で暮らす人々。

この家はもっとも深いところに建っている。

その横をふらふらしながら過ぎ去っていく。

 

 

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Sinuwaまで登り切ると、Chomrongの町が眼前に現れた。
今から馬鹿みたいだが、この同じ目線くらいにあるChomrongに行くために500m下って600m登る。

金比羅山かと見紛うばかりの石段地獄。
しかもナイスタイミングで雲に隠れていたお天道様が顔を出す。
一歩一歩が山中5日目の傷だらけのローラのような下半身を襲う。
もはや石段を呪いながら、汗を顎先に揺らめかせ、ひとつひとつ登っていく。


11時、Chomrong登頂。
昼食を取ると、今度は一気に下る。
一日目に泊まったJinuまでは険しい下りだ。岩だらけで段差が大きい。登りはかなりキツかったが、下りは下りでドスンドスン降りるから足への負担がすさまじい。
Jinuからはまた下り、毎度の谷底橋へ。そこからまた登ることになる。
ここで『ドM三連山』はなんとか越えた。

 

 

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そしてここからはただただ歩き通す。
緩やかな下りの、来る時に5時間かけた道を歩いて行く。
僕は下山時に疲労の限界を越えると何故かクライマーズ・ハイモードになる。足がウソのように軽くなる。そしてウソみたいにガクガク揺れるのだ。ただの脳内麻薬中毒患者でしかない。
嫁はすでに足が限界近い。なんせ歩き始めて9時間。しかしここまで来たからには下山してビールに沈みたい。

 

 

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道の真ん中でタランチュラ対地蜂の異種格闘技戦があった。

さしずめアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラミルコ・クロコップといったところか。

勝敗はノゲイラがミルコのハイキックをモロに受け、そのまま巣まで運び去られた。

なぜ勝敗を知っているかというと、道の真ん中でやってるので怖くて通れなくてずっと見ていたからである。

 

 

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しかし、ここで問題があるのだ。
ポカラの町まではバスの利用が一般的だ。タクシーはすごく高い。
そんなバスだがNayapul発の最終便が17時くらいだと聞いていた。しかしどうやら間に合いそうにない。
かといってそんな時間にふらふら現れたらタクシーのオヤジに、しこたまふっかけられるに違いない。

そんな中、あと1時間位で着くSyauli Bajarからもバスが出ているのを思い出した。登っている時にすれ違ったからだ。
もしNayapulに遅く着くようなら、ここからバスに乗ろうと考えた。

 

16時半、Syauli Bjarにつくと一台バスが止まっている。間に合ったようだ。
バスを丁寧に洗っているおじさんに話しかけた。
「このバスはポカラ行きですか?」
「そうだよ」
「いつ出るんです?」
「明日の9時」
え?もう終わってる・・・

 

こりゃNayapulでタクシー親父とのかなり分が悪いバトルをせにゃならんことになりそうだ。
そう思うと疲労が一気に増した。
「乗り合いジープに乗れば良いじゃない」
バス停でたばこを吸っていたおっさんが言った。
「あんたタクシー高いから嫌なんだろう?」
「・・・図星です」
「この先に乗り合いジープがあるから行ってみな。たぶんまだやっているよ」


そこからまた長々と歩くとジープが何台も停まっている場所があった。
来る時こんなの見なかったぞ?でも何台かジープとすれ違ったような気もする。
そう記憶の底をいじくりまわしていると、チャラい兄ちゃんが二人やってきた。
「ニーハオ!ジープ乗る?」
「俺達は日本人だ!!」
「そりゃごめん。コニチワ~」
「ポカラまで一人いくら?」
「ポカラの宿まで連れて行くよ!1人3000ルピー!
足元見やがってクソガキ!3000ルピー(3600円)もあればポカラで10泊もできる値段だ。
「高すぎる!」
そういって彼らを抜いて歩き出す。
「待って~!じゃあ1500ルピー!!」
いきなり半額。この数秒でリーマン・ショックでもあったのか?
乗り合いジープなんて値があってないようなもの。そんな額なら現地人が利用できるわけがない。
無視してツカツカ歩き出すと、チャラい兄ちゃんたちは駆け寄ってきた。
「待ってよ。二人で1500ルピーでどうだ!」
「最初の3000ルピーは何だったんだよ」
テヘペロと前髪くね夫な兄ちゃんが笑う。
まあ、ともかく二人で1500ルピーで手を打った。
タクシーならNayapulからで2000ルピー前後というし、今の時間ならどれだけ盛られるかわかったものじゃない。
「地元の人はいくらなの?」
「何言ってんの?同じに決まってんじゃん。さあ乗った乗った」


チャラい兄ちゃんはすぐに車を発進させた。客は僕らを入れても3人だけ。あれだけ必死だったのは、もう今日の最後の便だったからかもしれない。
何人か乗り降りしたが、ポカラに降りると僕達だけになった。バスだったら3時間かかったが、おかげで1時間半で宿まで帰ってこられた。
昨日の朝には4100mのヒマラヤ山脈まっただ中にいたのに、今や賑わうポカラの町に降り立った。
何だか不思議な感じだ。

 

 

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あれっ!?気づけば目の前にステーキが!!

 

 

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ああっ!気づけば目の前にビールが!!!

 


文明のありがたみをあれだけ山で感じていたのはもうどこへやら。
今やそこら辺の野良犬のようにひたすら文明をがっつくのであった。
でも、あの美しい景色は足の痛みとともに、永遠に記憶の片隅に宿り続けるだろう。

 

これだから山はやめられない。