ルアンパバーンの朝

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ルアンパバーンの朝は早い。

5時半、寺院からオレンジ色の衣を纏った僧侶が列になって出てくる。

脇に籠を携えて。

 

 

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托鉢は粛々と行われる。

僧侶が列になってそろそろと歩く。

その道の脇には食べ物を用意した信者たちが座っている。

信者の前で僧侶がそっと籠の蓋を開ける。

信者はそこに一掴みのもち米や野菜を入れていく。

そして僧侶は何も言わずに通り過ぎて行く。

 

僧侶はお礼を言わないし、信者もそれをもとめない。

僧侶は全ての欲を抑えこんで修行をしている。そんな僧侶でも生きるためには何かを食べなければならない。そこで信者に食べ物を分けてもらう。

これは一種の功徳であり、修行をしていない在家信者にはありがたいことなのだ。

 

釈迦の時代よりも前の古代インドから脈々と続く托鉢は、ルアンパバーンの朝の静けさの中で変わらず今日も行われていた。

 

 

 

ルアンパバーン、朝、托鉢

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そんな托鉢はルアンパバーン観光の目玉である。

建築物や遺跡ではなく、宗教行為が観光コース最大の見所なのだ。

ということでルアンパバーンの朝は忙しい。

 

そぞろ歩く僧侶の列に纏わりつく観光客。まあ、僕もそのうちの一人なのだが。

美しい托鉢の道は、カメラのフラッシュが咲き乱れる。

 

前記事でも書いたがラオスは貧しい。なのでルアンパバーン最大の見所である托鉢の撮影は大目に見ているようだ。これを見るためにルアンパバーンを訪れるという観光客は多い。

注意書きではフラッシュは禁止で、遠くからそっと撮すようにとある。

 

残念ながらそれは守られていない。

中国人の団体客がのりピーの記者会見くらいパシャパシャフラッシュを撃ちまくり、白人のおっさんが目の前で篠山紀信みたいなアングルで撮影していたりする。

 

インドやエジプトならリンチされかねないのだが、ここはラオス

ちらっと見るくらいで何もしない。

 

世界の色んな所で見てきたあの感じだ。

善悪という尺度では簡単に処理できない。矛盾といったほうが良いのだろうか?

世界は露骨で生々しく、その中で人々は必死に生きている。

偽善というフィルターは、貧しい国に行けば行くほど薄くなり、富める国では分厚くなる。

なぜだろう?

 

 

 

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朝市。

そういえば僕が子供の頃はよく「市」が開かれていたっけ。

土曜夜市とか日曜朝市とか。

田舎の短い商店街だったが、夏には浴衣なんか来て家族で遊びに行った。

 

そんな商店街はご多分に漏れず、大手ショッピングセンターが来てからカゲロウのように呆気無く死んでいった。

 

 

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活気ある市の雰囲気はとても懐かしく、そして楽しい。

野菜の青臭さ、果物の酸っぱい臭い、生肉のうっとする臭い。

鶏の泣き叫ぶ声、お湯を沸かす音、すり抜けるバイク、喧嘩するオバちゃん。

 

僕の記憶にある市と売っているものはだいぶ違うが、この活気にはとてもワクワクさせられた。

 

 

ルアンパバーンでは骨の髄までボケっとして過ごした。

たまにはいいか~なんて思ったが、東南アジアに来てからというものずっとこんな感じだ。

東南アジアの気怠い暑さ、のんびりした人々、美味くて安い飯と酒・・・

 

前略おふくろ様、僕は日本で社会復帰できそうにありません。