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カンボジアの悲劇の痕『キリングフィールド』

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ホーチミンからバスでカンボジアに入った。

悪名高きカンボジアの入国官は当然のごとく賄賂を要求してくる。僕はこれで2度目のカンボジアだが今回の方が少し高かった。
たった数百円だが気分は悪い。でも向こうも「たった数ドルくらい良いだろう?お前たちは金持ちなんだから」と罪悪感は毛ほども感じていないだろう。
これがあってやっとカンボジアに来たという感じがする。

 

カンボジアと聞けば何が思い浮かぶだろうか?
アンコールワット、地雷、内戦、虐殺、ポルポト・・・
日本人からみるとカンボジアという国は、負のイメージの方が強い。
実際には貧しく治安も周辺国よりは良くないが、人々は素朴で恥ずかしがり屋が多い。都市部以外は延々と田んぼが続き、水牛と農民がゆっくりと歩いているような風景が続く。

 

本来そんな温厚で素朴な国であったカンボジアでは、800万人の人口の内の300万人が殺されるという人類史上最も理解不能な惨劇が繰り広げられた悲劇の時代があった。

 

 

 

キリングフィールド

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プノンペンから少し郊外に行ったところにそれはある。
キリングフィールドというおどろおどろしい名前がついた場所だ。
ここで何が行われていたのか?それは処刑だ。ここは2万人もの人たちが鉈や鍬で撲殺され、埋められていたまさにその現場である。


殺された人たちは自分が何の罪で殺されるのか、何のために殺されるのかすらわからないまま、老若男女問わず無残に殺された。しかもその執行者は同胞であるカンボジア人、しかも多くは少年兵であった。

 

なぜこんなことが起きたのか?

それは1975年4月17日から突如として始まった。

 


当時、内戦続きで荒廃していたカンボジアベトナム戦争の延焼まで受けてそれは悲惨な状態であった。国民の8割が貧困層であり、食うや食わずの生活を強いられていた。

 

それでも彼らは自分の家を持ち、自分の家族や親類たちと共に質素に暮らしていた。
そこにポル・ポト率いるクメール・ルージュが現れた。クメール・ルージュとは「赤色クメール=カンボジア共産党武装勢力」という意味だ。
初めは小規模であったクメール・ルージュは、農村部から瞬く間に勢力を拡大し、ついに首都プノンペンに入り新政権を打ち立てた。


そんな彼らがまずしたこと、それはプノンペンの住民を追い出すということであった。彼らは毛沢東思想の流れをくむ原始共産主義社会を奉じていた。これはすべての私有財産や個人という概念を否定する極端な社会だった。

当時内戦や米軍の爆撃などによって100万人もの難民が流れ込んでいた首都プノンペンの住民を、すべて強制移住させた。


いきなり着の身着のままで放り出された人々は、何は何だかわからないまま家族と引き離され、クメール・ルージュに先導され各地の農村まで連れられていった。楯突く者、付いてこれない者はただちに殺された。

農村まで連れてこられるとそこでは毎日12時間の強制労働が待っていた。クメール・ルージュは都会育ちの人々に慣れない農作業を強制した。休みはなく食事は日に2回の僅かな粥。農業生産を3倍にするという無茶な計画のため、多くの人達が過労死や病気で死んでいった。


そしてそれと平行して行われていたのが処刑だった。
初めの標的は旧政権側の人間たち(官僚や軍人など)であったが、そのあと矛先は知識人に向かった。教師や技術者を殺し尽くすと、今度は外国語ができるもの、本を持っていたもの、果てはメガネを掛けたものがインテリであるという理由で惨殺された。

これはすべて反革命的な人物、敵対国のスパイとして殺された。そのすべてが拷問によって無理矢理自白させられたものだった。

 

 

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処刑は陰惨を極めた。
「銃の弾は高価だから」という理由で処刑は鉈や鍬、鎌、竹槍、五寸釘などの身近にある物で行われた。
実際に処刑された人たちの頭蓋骨には大きな穴や割れ目が生々しく残っている。

 

 

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これはカンボジアのどこでも見られるサトウヤシの木だ。
処刑にはこのヤシの葉まで用いられた。

 

 

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よく見ると小さなギザギザがついている。

これをノコギリのようにして首を切ったという。

実際に農村では鶏を屠殺する際に使うというが、わずかばかりのギザギザがついているだけなのでその苦しみは想像できない。

 

 

 

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この木にはたくさんの数珠や花が供えられている。
なぜかというと赤ん坊を殺すときに、この木に頭を打ち付けて殺していた。それも母親の目の前で。この木には発見当時、血や脳味噌や骨が付着していたという。

 

 

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そしてその処刑人たちは、ほとんどが少年兵だったという。
クメール・ルージュはその成り立ちから地方の貧しい子供たちを兵隊として勢力を築いてきた。彼らは衣食を与えられ、そのまだ無知な頭のなかにポル・ポトの思想をねじ込まれていった。
ポル・ポト「腐ったりんごは箱ごと捨てろ」と教えていた。少しでも怪しいと認定されたのなら親族含めて皆殺しにした。少年兵たちは何の疑いもなく、赤ん坊から老人までを農具やヤシの木を使って処刑していた。

 

 

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なぜポル・ポトたちはこのようなことをしたのか?
それは理想のためだったといわれている。
しかし国民の3人に1人を殺すという惨劇はまるで理解できない。
同じく殺戮を行った独裁者達はどうだったか?スターリン毛沢東は権力闘争のためであり、ヒトラーは権力奪取と経済政策のためにユダヤ人を殺した。
ポル・ポトはどうか。彼は不安定ながらもカンボジアの権力を手中に収めた。すべての革命と同じように旧政権側の人間を抹殺した。そのあとインテリを殺した。次に都市部の人間を殺した。すべては敵であるという理由で。


ポル・ポトも自らが打ち立てた権力を失うのが怖かったのだろう。自分自身が富農出でフランス留学までしたインテリである。カンボジアは内戦で荒れ果て、隣国ベトナムの脅威に戦々恐々としていた。その恐れが虐殺に歯止めをかけなかった。


さらにこれも共産主義革命でよく見られる、密告とノルマによる疑心暗鬼の社会ができたことも拍車をかけた要因だった。音声アナウンスでもあったが、極限状況に置かれてしまうと人は平気で他人を殺したり、嘘をつき始めるという。
自らを助けるために、苦しみから逃れるために、多くの人達が親や友人を売った。収容所では些細な事で喧嘩になり、地方では旧政権側にいた人間が立ち寄っただけで村に嫌疑がかけられないよう殺してしまうという事例もあったという。

 

収容所の人間もノルマが達成できなければあらぬ嫌疑をかけられると不安になり、ますます殺人的な労働を課すようになる。
政府は政策の失敗を「敵」のせいだとしてますます粗探しを始める。
まさに負のスパイラルだ。ジョージ・オーウェルの「1984」の世界だ。

そしてその収まりつかない矛先が向かうのは、弱い市民の命である。

 

 

ここで疑問が残る。
ポル・ポトがなぜ政権を取れたか、なぜ4年もの間こんなことをしていても平気だったのか。
答えはそのポル・ポトを支援していたのがアメリカであり中国であったからだ。
ポル・ポトは中国で毛沢東路線を学び、その支援で力をつけた。アメリカは親北ベトナムカンボジア政権を打倒したいがために、反北ベトナムポル・ポトを支援した。
ポル・ポトは政権を取ると国境を封鎖し地雷を敷いた。完全な鎖国状態となったカンボジアをアメリカを始めとした先進国は無条件で承認し続けた。なぜなら興味がなかったからだ。当時の中米やアフリカにあった多くの独裁国家と同じように。


皮肉にもそのポル・ポトを追い払い、人々を救い出したのはベトナムだった。彼らはベトナムに亡命していたカンボジア人グループを率いて攻め込んだ。ポル・ポトはタイ国境まで退きジャングルに身を潜めることとなる。そんなベトナムは侵略戦争のレッテルを貼られアメリカに制裁を受け、中国に攻めこまれた。

 


クメール・ルージュはその後徐々に内乱で崩壊していく。ポル・ポトはかつての部下によって軟禁され、1998年に死んだ。毒殺だったともいわれるが、家族とともに平穏に暮らしていたという。
これが自分の命令であどけない少年兵に鉈や鍬で無実の人を殺させていた男の死だ。

 

 

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キリングフィールドでは丁寧な音声アナウンスで当時の状況を生々しくもわかりやすく教えてくれる。
凄惨な処刑現場であった場所を開放し、ツアーや写真撮影も許可している。すべては後世にこの悲劇を伝えるために。

 

 

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草が生い茂るキリングフィールドには不自然な窪みが幾つもある。これはすべて死者を埋めていた場所だ。この窪みは発見当時、死体から出るガスで盛り上がり地面が膨張しているように見えたという。

 

 

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道を歩いていると地面に白い骨が浮かび上がっているところがある。窪みをよく見ると小さい歯がいくつも散乱している。今も雨季になると雨で地面が流され、骨や衣服が出てくるという。

 

 

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キリングフィールド見学順路の最後の場所がこの慰霊塔だ。

慰霊塔にはおびただしい数の遺骨が納められている。

この高さの塔の内部がぎっしり骨で埋まっている。

中に入ると、色褪せた頭蓋骨がずらっと並んでいた。よく見ると頭頂部に不自然な穴があったり、一部が損壊しているものが多数ある。

塔内にはなんとも言えない空気が漂っている。

声を発する人はいない。みんな押し黙ってただじっと骨を見つめる。

 

 


クメール・ルージュが去ったカンボジアでは未だにその爪痕が深く刻まれている。
カンボジア人口ピラミッドを見ると、自然ではありえない不気味な形になっている。プノンペンの町を歩けばどこも若い人たちばかり。老人を見かけることはかなり少ない。クメール・ルージュによって知識階級が皆殺しにされたために、カンボジアの復興は大いに遅れ今でも貧しい暮らしの中にある。


見学を終えて僕が第一に思ったのは「これが自分でなくてよかった」ということだ。ここまで凄惨な出来事だと、他人事としか受け入れられない。むしろ平和な境遇にある自分への安堵の思いでいっぱいだった。

 

無責任な発言かも知れないが、それほど恐怖を感じた。世界ではシリアのように未だにこのような悲劇が繰り返されている。僕らもイスラエル周辺の緊張によって旅のプランを変える羽目になった。

 

旅先では普段のニュースがとてもリアルに感じる。他人事だけど、それはたしかに起こっている。「僕じゃなくてよかった」と思える幸せ、それはどんなことよりも大切な幸せなのだ。

 

カンボジアに訪れることがあるならば、アンコールワットだけではなくぜひキリングフィールドにも立ち寄って欲しい。他にもかつて強制収容所だったトゥールスレンなどもある。

 

キリングフィールド見学はとても気分が重くなったが、カンボジアの悲劇の歴史を体感できた長い長い1日だった。