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巡礼路を行く友を思いながらの時間論

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「ハロー!元気にしているかい?」

去年、一緒にスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩いた陽気なオーストリアの友人からメールが来た。

彼は今年もまた巡礼を行うらしい。今度はイタリアからサンティアゴ・デ・コンポステーラまで歩いて行くという。

1ヶ月もあるバカンス休暇という良い御身分だ。

「君たちもまた一緒に行こう!ブエン・カミーノ!」

メールはそんなあっけらかんとした彼らしい文章で締めくられていた。

 

 

 

世界を周って如何に地球が小さいかというのを自分の足をもって感じた。

文明の利器を駆使すれば、映画を見て機内食を食べてウトウトしていると、気づいた頃にはコロンブスが命がけで渡った海を越えている。

科学の勝利か、それとも元から小さかったのか?それはわからない。

 

 

しかし、地図をなぞるような地球の体感的大きさは何となく分かったが、そこにある時間というものは未だに測りきれなかった。

今年もまた巡礼に向かう友人の時間、日本でポクポクと働いている僕の時間、これは全く同じなのだが決定的に違うものでもある。

 

偉い人が決めた1秒という間、そこにあるものの大きさは決して一定ではなく、平等ではない。

科学の進歩は「距離の中にある時間」はずいぶん縮めてはくれたが、「個人の中にある時間」はその違いをより浮き彫りにした。

巡礼路を歩いている友人の時間と僕の今感じている時間は同じではあるが、そこのところが違う。その違いに人は安らぎ嫉妬し挑み後悔する。

 

 

 

こうしている間にも、巡礼路を歩く彼の時間を僕は感じることができるのだ。

それは本質的な意味で彼の感じる時間とは大いに違うであろうが、何の根拠もなく僕はそこで一緒に歩いているかのように彼の時間を共にすることができる。

歩いている彼のことを思うと、僕の中でもう一つの時間が流れるというわけだ。

これがただただ辛い。

彼を介して流れるもう一つの時間は、僕の面している時間よりも圧倒的に輝いているからだ。

でもこういった時間の享受性ともいうべき感覚こそ、ある意味人間の繁栄の源ではなかろうか。

 

 

人間は相手のことを慮ることができる。

むしろそんな相手の反応を見ることでアイデンティティを確立するような生き物だ。

曖昧な自己像を抱えながら「相手は何を考えているか」というのを常に問い続けている。

その「答え」は妄想や邪推の類であるかもしれないが、根拠なき確信を持ち、半ば脅迫的に信奉することまでできる。

それは相手の体験している時間を想像できるからではないかと思った。

想像(妄想)は一単語で表される現象のようなものとされがちだが、そこにはしっかりと時間性があるということを思ったわけだ。

 

仕事中にもかかわらず、巡礼路を歩きスペインワインをかっ食らう彼を想像している僕は、彼の時間を(勝手に)想像しそれをちょっと後ろから追体験しているともいえる。

何千キロ離れた友人の時間を日本の田舎の職場の食堂で弁当を突っつきながら僕は追体験している。

完全なる妄想であるが、それが本来の時間の中で新しい時間を作り出しているというなんかすごいことなのではないのだろうか?

 

人間は常時いくつかの時間を平行しながら生きている。

楽しかった頃、なりたかった自分、過去の失敗、中止になった野球の試合、魅惑の異性、嫌なアイツ、飼っている犬etc

今まで妄想という言葉で終わらせていたことが、「俺は今、時間を生起している」と思えばなんだかカッコイイじゃないか!

 

 

要するに僕は巡礼にまた行きたいんだけど我慢して働いているので誰か褒めてくださいという話でした(^O^)

 

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