脳とフィルムカメラ~なぜ人はデジタル全盛期にフィルムカメラを手に取るのか~

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「なぜこのデジタル全盛期にフィルムカメラを使うのか?」

時代を逆行する嗜みを突き詰めると、一体そこには何があるのか?

高騰するフィルム代と現像難民、実際フィルムやってる人間からすると真理は経済性にあるが、その不可解な行動の根源は何なのか?という疑問はあった。

 

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今どき、この半世紀以上昔の瞳AFどころか露出計もない完全機械式カメラに数十万出すなんていう『動機』の『源泉』は何なのか?おそらく僕以上に嫁さんが聞きたいのだろうが、これはタレス以来の人類の真理への知的欲求にも関わる重大なテーゼである。

そんなフィルムカメラへの破滅的な判官贔屓の原因が、『脳』にあるのではないかというのが今回の問題提起である。

 

 

 

脳科学から眺めるフィルム愛好者

事実はなぜ人の意見を変えられないのか-説得力と影響力の科学

事実はなぜ人の意見を変えられないのか-説得力と影響力の科学

 

ここに一冊の本がある。

事実はなぜ人の意見を変えられないのか-説得力と影響力の科学』という世界的ベストセラー本である。

言うに及ばず日本のメディア業界というのは、洋画や洋書の題名を魔改造するのがエリートたる使命だと考えているのだろうが、原題は『影響力のある心:他者を変える脳の力について』という感じらしいとAmazonの中の人が教導してくれている。

邦題は第一章の内容のみを指し、トランプ政権下で揺れるアメリカからの舶来物ですよという打算的な捻り以外の何物でもないが、この本自体は人=脳は案外いろんなものに影響を受けているんですよという主題である。

 

まず挙げておきたいのは、脳はウホウホ原始時代からさほど変化していない。

ダイエットできないのは食料が安定供給されない狩猟採集生活の名残であるし、恐怖のために動けなくなるのはサーベルタイガーの記憶のせいである。

そんな人間の脳は、この現代において『デジタル時代にフィルムカメラを愛する』という極めて非経済的反ダーウィニズム的不可解行動をする一派を生み出した。

ここからはなぜそのようなアウトサイダーが存在するのかを、本書に沿って導き出してみよう。

 

 

人が本能的に求めるコントロール感

本書によれば、人は自分が環境をコントロールしているという実感がなければ不安を感じてしまう生き物だという。

飛行機恐怖症や、渋滞でのイライラ、幼児が何でも自分でしたがる等々、人間は自らがコントロールしているという感覚を重要視している。

結果はどうあれ、自分で選択したほうが押し付けられたことよりも満足度や幸福度は高いという研究結果があるのだ。

 

自由選択後の結果が好ましいという経験を繰り返すうちに、私達の心の中では選択と報酬の関係が強固になり、選択そのものが報酬ー探し求め

享受するものーになってしまうようだ。

 

実際のところ、人間は選択することで、脳の報酬系が活性化される

報酬系とは、人間を生かしたり子孫を増やす行動へ促す装置だと思ってもらえば良い。「生存や子孫を増やすこと=ヒトとして良いこと=報酬」とするのが脳である。

要するに人は、主体性を感じていたい生き物なのである。よってたとえ人に選択を委ねる時でも、「自分がこの人に選択を委ねた」という自負があるのであれば、満足度は変わらない。

著者いわく、脳にスローガンがあるとすれば『周囲の環境を支配せよ』らしい。周囲の環境を支配することが、繁栄や生存につながるからだ。だから脳の報酬系を働かせ、主体的に行動するように仕向けている。

 

この文章を読んでドキリとしたあなたの冷蔵庫の中には無数のフィルムが積まれており、押し入れを開ければ防湿庫がうず高く積まれていることだろう。

 

僕が思うに、カメラという趣味そのものがこの主体性を保つツールとして存在しているように思う。

昨今の高度な科学に囲まれた情報化社会において労働や生活を行うことは、非人間的な行為であるという逆説的な環境に我々は置かれている。ウホウホ原始時代には、時間の概念は大雑把であったし、有給休暇や残業なんて知らないし、信号機もATMも無いし、光熱費や消費税もなかった。

便利で豊かな生活を享受するためには、ウホウホ原始時代ではあり得なかった非主体的でよくわからないルールに縛られた日々を送ることになる。

そんな中で、趣味とは自己の主体性を担保するツールとして存在し、だからこそ現代社会において子孫繁栄よりも重要な「マネー」を湯水のように撒き散らして我々はカメラやレンズを買い漁るのである。

 

そしてその中でもとりわけ主体性ーコントロール感を求めるアウトサイダーたちは、必然とフィルムカメラに流れていく。

なぜなら昨今のデジタルカメラは、もはやコントロール感はなく、コントロールされてる感の方が強くなってしまったからだ。

便利過ぎる。シャッターボタンを押すだけで、簡単に撮れる。素人でも子供でも撮れるのだ。iPhoneなんてタップするだけで一眼レフカメラ並の写真がインスタ女子でも簡単に撮れてしまう。

これこそ、カメラという製品の至上命題であったであろうが、これがアウトサイダーには主体性の放棄として映ってしまった。

カメラが技術進歩することは大いに結構、本当に素晴らしいことではあるが、果たしてこれは撮影していると言えるのであろうか?

そんな人類の99.98%がどうでも良いと思うことで夜な夜な苦悶しながら、アウトサイダーはある方向へと導かれていく。

 

 

 

 感情と選択

ドナルド・トランプは大統領選にて、「予防接種のせいで自閉症の子供が増えている」と演説した。

対立候補は最新の科学データでこの説を否定したが、トランプ支持者は揺るぎなく彼を信じ、そしていろいろあって結局トランプは大統領になる。

トランプは状況をコントロールしたいという欲求と、それを失うことへの不安を巧みに利用している。

トランプは理論やデータではなく、感情に語りかける。

人間の価値判断は、結局のところ感情なのだ。どんなにデータや科学的な意見を聞いたとしても、無意識のうちにでも感情によってすべてが決まってしまうことが多い。

 

例えば、人間の感情は簡単に伝播する。映画館で同じ映画を見ていれば、年令や性別が違っても、似たような脳の働きが起きているという。

ケネディの演説のように、人々の感情を揺り動かせることができれば、大衆の意見を一気に変えてしまうこともできる(世論調査で支持率の低かったアポロ計画を、ケネディは演説でひっくり返した)

 

そして人間の脳は情報が大好きなようにプログラムされている。先程の報酬系がここでもまた活性化される。

人間の脳にとって情報を得るということは、食物を得たり、異性と◯◯することと同じ神経作用だったという。これは情報は生存に不可欠だからだ。

そしてそして現代においてその情報源が広告であり、SNSだ。

今はフィルムカメラブームなんて一部で言われているが、僕もその小さなムーブメントの端くれにいる。

ブームに乗ったというわけではなく、ブームによって情報が増えたことにより、それに引っかかったというべきだろう。

上記のように、昨今の優秀過ぎるデジタルカメラ、さらにPhotoshopなどのレタッチ技術を、「主体性の乖離」として眺めていた(というか差し向けられていた)僕は、この情報の波に乗ったというわけだ。

ネット広告やSNSでは、僕が普段からカメラや写真について検索しているのを学び、すぐさまハイエナの如くスマホやPCの画面の端っこに「情報」が現れる。

「あなたにおすすめの記事」とか「あなたにおすすめの商品」とか。

そしてTwitterやFacebookで、「あなたの友人がいいねしました」とか「あなたの友達かも」とか、そんなこんなで少しずつではあるが確実に僕の脳の記憶領域に浸透していく。

 

これはGoogleや大手SNSの膨大な情報、ビッグデータより、より僕の脳が欲しがる情報がせっせと運ばれるからである。

そしてこれは人間の脳の「知識のギャップを埋めたい」という衝動を利用している。

カメラ好きが「あの伝説のカメラマンが使っていたカメラ10種」とか「Nikonの失敗レンズベスト5」とか見ると食いつきたくなるのはこれだ。たとえそのカメラマンのファンでなくても、Nikonが大好きでも、なんか気になってしまう。

 

よって僕のようにカメラという趣味活動への情報ギャップを埋めるために遣わされた感情的な情報=フィルムカメラとの出会いという人は多いんじゃないかと思う。

かく言う僕も「これがフィルムカメラを始めた原因」なんてものは明確じゃない。知り合いからフィルムカメラをもらったというのもあるが、多分カメラをもらわなくても時期を前後して始めていたと思う。

何事にも主流派とアンチは存在する。振り子のように人々は流される。その動力は情報だ。デジタルカメラが主流の今、アンチテーゼとしてのフィルムカメラの存在が際立つのは当然なのかもしれない。

僕のような過激なアンチではない天の邪鬼的素質の人間は、こういう主流派と一線を画す・・・というのに弱い。

「機械式カメラは一生モノ」とか「デジタルには写せないフィルムの個性」とか「シンプル・イズ・ベスト」とか「絶賛国外流出中」とか「あえて今フィルム!」とか「結局はライカ」とか「死ぬまでに使いたいライカ」とか「史上最高のファインダー」とか・・・

 

現代脳とフィルムカメラの相性

以上のように、「このデジタル全盛期にあえてのフィルムカメラ」という選択肢へ至る道程を脳から捉えてみた。

まあ誰もがこんなのじゃないのはわかりきっているのであるが、大なり小なり最近フィルムカメラ始めた人は似たような感覚ではないだろうか?

僕自身はこれはとても良い傾向だと思う。

なぜなら人間はこういう「あえて」という人たちのおかげで文化的に成熟していった。多様性を残し、チャレンジ精神を働かせることで、人間は環境適応能力の高い種として世界に君臨しており、その御蔭で我々はカメラを手にとってニヤニヤできるのである。

もしこれでデジタルカメラが合理的だからとフィルムカメラが一切合切廃棄されてしまえば、人類はあのLeicaM3のシャッター巻き上げレバーの「はふん♡」という感覚を永遠に失ってしまったかもしれない。

それだけでなく、合理的過ぎれば過ぎるほど多様性は無くなり、単一化した写真ばかりになり、写真趣味なるものは消えて単なる16K記録用カメラが街中に張り巡らされるディストピアな世界が待ち受けているかもしれない。

 

そう考えるとだ。

現代脳においてフィルムカメラとはベストな存在ではなかろうかと思うである。

 

①主体感マシマシ

AFなし露出計なしISO固定WIFI機能なし・・・要するにすべて自己責任=主体的活動

 

②感情的機械製品

デジタルのように適当に撮りまくってあとから出来の良いのを探せば良いや!的な大量消費社会的思考から逸脱した、完全なる一写入魂の質的思考の権化たる機械製品。

一枚一枚に魂をねじ込み、特にポートラ400ならそれこそ全神経をカメラへ集約し寿命を削ってのファイナルフラッシュである。

そうすれば一枚に込めた感情的情報量はデジタルの比ではなく、さらに撮影前後の記憶すらこれでもかと練り込まれている。

そして時間的ラグまである。「幸せをお金で買う」5つの授業」によれば、先に金を払ってから商品にたどり着くまでの時間が空けば空くほど幸福度が上がるという。

フィルムカメラは、感情的機械製品であり、現代においてほぼ絶滅した希少な存在なのだ。

 

③ギャップを埋める存在

ネットやSNSでもフィルムカメラ界隈は慎ましくもホットな分野だと思う。

なんとなく熱量高い人が多い。

我々はロストテクノロジー化しつつあるフィルムカメラと心中を覚悟した同士であり、GoogleやSNS上の極小な情報ギャップを埋める殉教者である。

故に我々は大船をせっせと作るノアであり、金貨を敷き詰めるスダッタであり、鼻水入りのお茶を飲み干す石田治部であり、仕送りに余念のないテオであり、トンネルを掘り進めるベトコンであり、死に際にガンタンクを仕留めるノリスである。

 

以上のように、『フィルムカメラとは現代人と現代脳が豊かさと合理化のために吐き捨ててきた主体性と人間的感情と強固なコミュニティを手にすることができるツール』である。

もうこれほどのツールはほとんど残されていない。

現代はすでに家電と喋ったりできるイカれた時代なのだ。

 

最新式のデジタルカメラがあれば、全てを動画で撮影し、気に入った瞬間を写真に落とし込めたりできる。これぞ、古のカメラ小僧たちが追い求めた究極地であろう。

 

ブレッソン「決定的瞬間!ポチ!決定的瞬間!ポチ」

 

だがそんな時代にも細々と、しかし燃えたぎる欲動によってガシガシ使われるフィルムカメラ・・・

これぞカメラがカメラたる所以なのかもしれない。

 

 

 

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