世界一周から帰国して読んだ70冊の中で面白かった本

世界一周から帰国して早一年。

旅は終わった・・・わけではない。

旅の間に疑問に思ったこと、知りたくなったこと、そんな知識欲求への旅は帰国してからがスタートなのだ。

謂わば旅というのは、頭でっかちな引きこもり知識をオープンに晒すことでまた新たな道を作るものといえるのではないだろうか?

絶景写真より実物のほうが数万倍も情報量が多いという現実は、少々凝り固まったちっぽけな概念というのを爽快にぶっ壊してくれる。

そんなこんなで帰国して読んだ70冊の中から面白かった「旅後本」を紹介してみよう!

 

 

 

社会って何だろう?

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会を変えるには (講談社現代新書)

 

「おい!ピースボートでも乗ってきたか!」

と言われそうだが、そういった意味ではない『社会』の捉え方であるということを先に言っておく。

僕はどっちかというと歴史や民俗学といった学問が好きで、世界を「国家と民族と宗教の集まり」であると認識していた

だからステレオタイプ的な国家イメージはあって、例えばインド人はカレーばっか食ってる(実際にそうだった)やイタリア人はジローラモみたいな奴ばっかり(だいたいがそうだった)だと思っている。

 

だがしかし、実際に世界を周ってみるとそこには『社会』というもう一つの重要な世界の捉え方があった。

社会とは世界を見てきた僕が思うに「そこの住人が作り出した小さくて曖昧だがしっかりとした土台としてあるもの」だ。

そこには歴史や宗教や文化が重要な部分を占めているが、複雑化した現代社会においてそういった20世紀的なものだけでは、すでにあらゆる問題をカテゴリー分け出来ないと思ったのだ。

 

今世界を騒がせているイスラム国だって、日本の報道だと宗派や民族対立とその裏にある大国の思惑という冷戦時代っぽい風潮だが、実際は小さな社会問題の集まりだと思っている。

社会はアメーバのように広がり、どこかに金なり武力なりを注力すると、その分が違うところを押し出してしまう。

ヨーロッパで仲良くなった人達には強烈な移民への憎悪があった。歴史的に見ると彼らこそ移民問題を創りだした原因であるのに間違いはないが、実際生活している人達にとってそんなことは関係ない。

彼らにとって「イスラム教徒が町中どんどん増えていって治安は悪くなるし、俺達の税金が貧困対策で奴等に食い尽くされる」という意見と「電車に乗ったら髭を生やしたイスラム教徒ばかりで怖かったわ」という意見は一緒なのだ。

やはり社会とはなんぞや?というところが旅をしていて大きな疑問だった。

 

ということで社会学の本を読み始めた。

マックス・ウェーバー(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 )だったり、社会批評的な本は読んだことがあったが、まずは日本社会を学んでみようと思った。

そこで社会を変えるにはを読む。

やはり歴史が好きなので、戦後の日本社会史なんかは読んでいて面白い。

産業革命と市民革命によって生まれた「社会」「自由人」「大衆」は、科学と技術の進化と共に急速に発展し、二つの大戦で世界を破滅の一歩手前まで追い込んだ。

大戦の反省から、大きな物語は縮小し、「世界は小さな人間の集まり」であることを認めようという運動が盛んになる。

 

日本はその中で自民党に身を委ねて闇雲に経済発展していった。その社会のうねりが生み出したのが先進国としての豊かな生活であったが、そこから弾かれたものが生み出したのが安保闘争や連合赤軍、そしてオウム真理教である。

詳細は本を読んでもらいたいが、とにかく人間は「自由すぎると逆に不安になるし、孤独を愛すが何かしらにハマっていたい」というたいそう我儘な女子高生みたいな生き物だということがわかった。

そんな人間は入り乱れて生活しているのが社会である。20世紀の社会が生み出した最大の副産物がヒトラーだったと言われるのも、社会史を学ぶとものすごく頷ける。

 

ちなみに僕が育ったのは「失われた20年」の日本だ。

バブル時代の興奮はさっぱり覚えてもいない。とにかく日本は暗いというのが当たり前だと思っている。戦後多くの問題を経済発展で財布を膨らせることで無視し続けた日本社会のツケの中でしか生きていないのだ。

その結果、少子高齢化や派遣切りや若者の貧困といった現在の問題から展望する暗い未来しか見えないという状態も、まあ仕方がないと思っている。

この辺の心境は「絶望の国の幸福な若者たち」や「地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会」が一番上手く書いていると思う。

 

世界的に見て日本の若者の政治への興味の無さは異常だと言われる。

でもそもそも未来は暗いんだからどうしようもないし、今のうちに(コスパよく)地元の友達と楽しんでおこう!というのは当たり前な処世術だとも思える。

未来はリスクでしかないのだから、結婚せず子供もいらない、仕事だって飯が食えてたまに遊べれば良い、友達とふざけたり趣味をしながら生きていこう・・・というのが今の社会に一番適した生き方なのだから。

貧困高齢者に3万円配るというシルバーデモクラシー下の日本で「融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論」を読んでいると泣けてくる。

 

社会学については今も勉強中なので、何かしらの形は作れていない。

だが一つ言えることは僕は日本が大好きだが、無条件な日本の文化や技術礼讃番組、外国人に日本が好きだと言わせるだけの番組、レイシストにネット右翼、そんなのは嫌いだ。

日本の技術は確かにすごい。日本刀なんて最高にクールだ!

でも世界を旅して目にしたのは、中国や韓国製品の高いシェアだ。車にスマホにテレビに家電・・・もうほとんど中国や韓国だ。

日本製品は一部の先進国でしか見られなかった。日本の技術は確かにすごいが、需要と供給が経済の大原則だというのを忘れてはいけない。

世界の市場はもう次の段階に動き出している。サハラ砂漠の少数民族のおっさんですら、Samsungのスマホを持っている時代だ。

閉鎖的な技術礼讃ばかりしていては、AppleにもSamsungにもなれない。

 

経済大国としてのプライドが揺らぎ始めているからこそ、こういったナショナリズム的な社会の空気を感じるのか?

社会の不安は大きくなるとすぐに外に向かうというのは歴史が証明している。

レイシストのような排外主義者もそうだ。かくいう僕も中国や韓国に対して良いイメージはなかった。むしろ敵意に近かった

でも世界を旅して中国や韓国の若者と仲良くなった。近場だと仲が悪い東洋人だが、自分たちが少数派になる欧州や南米だとやはり仲間意識が芽生える。そして中国や韓国の若者と一度繋がりができると、昔のようなあからさまな敵意というのも向けづらくなる。

この向けづらくなるというのが、今の社会に足りない要素だと思う。

平和ボケしろという意味ではない。政府同士は利害があるので、何でも仲良くしようというのは困る。

だが一般人が果たして外交関係を取り込んで同質化してしまうのはどうなのか?それこそ自由という責任が不安でたまらない未熟な行為ではないのか?

自分の意見を持たず、手っ取り早く「大きなもの」に巻かれるのは安易で心地よい。でもそれは虎の威を借る狐と同じなのだ。

 

社会批評的な本もけっこう面白い。

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

 

この本はサブカルチャーっぽい流れを「っぽく」見られるので、これを片手にヴィレッジヴァンガードに行ってみよう!

 

 

 

 

消費ってなんだろう?

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

  • 作者: ジョセフ・ヒース,アンドルー・ポター,栗原百代
  • 出版社/メーカー: エヌティティ出版
  • 発売日: 2014/09/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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バックパッカーというのは読んで字のごとく、バックパックに生活の全てを詰め込んで旅をする輩のことをいう。

 

「生活の全てを詰め込んで」と簡単に書いたが、75Lという限られた空間に何を入れるかというのはかなり難問である。

僕の場合は写真を撮って山も登るというスタイルだったので、とにかく荷物が莫大になる。結局15kg近くに膨れ上がってしまった。

 

そんな生活を一年続けると、自分にとって要るものというのは実際かなり限られていると感じる。結局、旅の間に物を捨てに捨て、最後の方は限りなく必要最低限に近くなっていった。

「これで僕はミニマリストってやつじゃん!」

僕はそう思っていた。帰国して金も殆ど無かったし、これからは強制ミニマリストにならざる負えないわけだ。

 

だがしかし!働き始めた僕は稀代のマキシマリストに変貌した。 

果てしない物欲!止まらない収集欲!その姿がこれだ!

何たる姿!僕は資本主義の下僕!広告の標的!血の労働を物象化するだけの奴隷!

だが物欲は止まらない。

世界一周の旅であれだけ研ぎ澄まされた僕のモノに対する感覚は、今やその片鱗も見えない。

 

これは完全に労働のストレスの反作用だ。

仕事を辞めて世界一周しちゃうくらいだから、そもそも束縛されること自体不快でしょうがない。

ちっさな頃から反逆的で、15で「教師としては息子さんみたいなタイプが一番怖いんですよね」と三者面談で言われたよ~♪

 

だからこそこの本を手に取った。

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったかという反逆的な題名に惹かれたのだ。

読んですぐ、僕は心臓にハートブレイクショットをぶち込まれた。

カウンターカルチャーというのは、ヒッピーとかパンクロックだとかそんなもんだと思っていた。まあそんなもんなのだが、その範疇はベッキーの闇くらい広い。 

 

「ハイブリッド車?だせえ!俺はSUVで荒野を駆けるぜ!愚民ども!」

「スーパーの野菜?そんなもの毒ザマス!私は完全無農薬の提携ファームのものしか口にしませんわ!!」

「エコな暮らしサイコー!太陽ときれいな水があればマジライフ!」

「ファスト風土のゴミブランドなんか着たり食ったり、あいつら豚かね?」

「ラブ・アンド・ピース!歌とドラッグがあれば世界平和♪」

実はこいつら全部、資本主義の下僕!広告の標的!血の労働を物象化するだけの奴隷!

 

カウンターカルチャーというのは主流があってこそなのだ。

「枠にはめられたくない」「みんなといっしょは嫌だ」「流行なんてくそくらえ!」なんていう『俺は人とは違う!』感情

これこそ、消費文化の格好の獲物なのだ、と著者は言う。

 

上記の発言を見て、ある傾向が見て取れまいか?それがわからなければ、あなたは消費文化にどっぷりハマっていることになる。

それは彼ら彼女らが『一般人より多くの金を使っている』ということだ。

彼らが嫌う一般人が持っていないモノ、持っていないライフスタイル、持っていない意識、それ全部「お高い」のだ。

 

ある時、アメリカで「自然放牧した鶏の卵」という商品がバカ売れしたという。

誰もが太陽光が降り注ぐ広大な大地を跳びはねる楽しそうな鶏をイメージして、その普通の卵より三倍もする「お高い」卵を買い漁った。

だが実際のところ、鶏はその習性で一箇所に集まって動かないのが本来の姿だという。別に外にいようが厩舎にいようが鶏は同じなのだ。

結局この高級卵を買った人達は、安い厩舎卵とさほど変わらない卵を三倍の値段で買ったのだ。

 

消費文化とは記号を買っているといわれる。

消費者はその卵がほしいのではなく、「自然」「体に良さそう」「人とは違う」といった記号に高い金を支払ったのだ。

こう考えると先ほどの発言は、皆なにかしらのイメージの記号を買ったといえる。

企業は広告で商品を売り込むのではなく、このイメージを使い、巧みにシェアを得るために金を使っている。広告によって大衆を洗脳し、順応させるのだ。

先ほどの社会学にもつながるが、この順応をマルクスは批判し、ヒトラーは利用し、カート・コバーンは自殺した。

 

商品だけで言えば、ある商品が大成功して主流派になると、対する企業は「あの商品は皆持っているからダサい」という洗脳広告を利用して自分たちの商品を反主流派(カウンターカルチャー)に売りつける。これが堂々巡りをして競争的消費原動力となり、大衆は欲しくもないものを買わずにはいられなくなるのだ。

これを一つ間違えば、ダリが大衆芸術と罵倒され、バーバリーのブランドイメージが没落し、スタバでMacが気持ち悪がられる。

人とは違うという差異化を買わせる。個人主義が広まり、わかりやすい階級も無くなった現代は、差異化こそ大衆と自分を隔てる壁なのだ。センスの良さこそ、差異化の基準になった。センスの良い高いもの=自分の労働の繁栄=自分は勝ち組という階層に憧れる。

Amazonのほしい物リストに誘惑されるのは、自分が思う階層に近づけそうだからだ。

 

 

結局、僕の爆買い現象はこういった差異化を求めての行動だったように思う。

世界一周の旅を終え、一気に大衆社会に埋没する自分を浮き上がらせようと、僕はセンスの良さそうなものを買いまくったのだ。

SNSの浸透でこういった現象はさらに拡大し、そしてすぐに消費期限切れする。企業にしてみれば口コミで一気に拡大し、一気に陳腐化すれば、それがまた新たな需要を生むからだ。

逆に言うと、世界一周中は何も欲しくなかったことや、その前の世界一周準備の極貧節約生活が耐えられたのも、世界一周の旅という最強の記号=差異化があったからかもしれない。

 

要するに消費とは、自由と個人主義が行き着いた先の大衆化を源泉とし、そこから抜けだそうとする人々のアイデンティティ欲求を象る記号を手にする行為なのだろうか。

 

 

現代人の欲求の最高到達点は自己実現であると言われるのは僕も賛同している。金や名誉よりも自己実現なのだ。だが結局は金や記号によるイメージに囚われてしまう。

そうではなく、本当に自分だけが満足できる、自己実現できることを追い求める、それこそが真の自己実現だということを再確認すべきなのだ。

まさに世界一周の旅は僕にとって自己実現の体験だった。あれはとにかく最高だった。だからこそ自分の夢を追い求めることは、少々クサイけれど人間にとって正解なのかもしれない。

現代はその自己実現が金や記号に支配されている。権力者になったり、起業して勝ち組になったり、超有名スポーツ選手になったり。そういうことが成功者だとされているが、実際はもっと手の届きやすいところに自己実現はあるのだ。

高望みをして端から諦め、それだけでなく頑張ろうとしている人間の足を引っ張るのではなく、自分のやりたいことを実際に行動してみるというのが本当のカウンターカルチャーなのかもしれない。

 

 

ぼくはお金を使わずに生きることにした

ぼくはお金を使わずに生きることにした

 

そんな消費への批判をしかと受け止めた僕だが、そういえば帰国した直後にこんな本を読んでいた。

あの時の僕はとにかく働きたくなくてこういった本ばかり読んでいた。

※「森の生活」は長いので読んでいないけどそういう類だ。 

 

消費=悪だとは思わない。

僕のように労働=悪だという反社会的人間は、嫌々やって差し上げている労働にせめてもの価値を見出したいという対価を求めるのは致し方がないことだ。

海外ではこういった輩がフーリガンになったりするらしいが、残念ながら僕の住む人外の地を本拠地とするスポーツチームは一切ない。

 

著者は完全に近い自給自足生活を行う。

もはや仙人の粋なので限りなく非現実的だ。一年の間、彼は自分の知恵と体力とコミュニケーションだけで生きていった。

でもこれは無理だ。

特に人とのふれあいを幸福感として拠り所にするのは、ニーチェ先生が激怒することこの上ない。

僕は「絆」とかそういう言葉が嫌いだ。SNSの繋がりの方がよっぽど現代人らしいと思っている。

なぜならそういった柵(しがらみ)から逃れるために、人類は発展し、個人主義を勝ち得たのだから。

大昔は集団でないと生きることは不可能であった。生産力が低すぎるし、病気も恐いし、治安も悪い。そこではたくさんの柵が生まれ、人々を束縛した。そうすることで何とか生き残ってきたのだ。

 

 

サバイバル登山入門

サバイバル登山入門

 

消費社会を意識しすぎたカウンター生活というのは、結局のところ物乞い的な精神になってしまうような気がする。 やせ我慢は自己実現ではないのだ。

そこで我等が日本が誇る服部文祥先生の登場だ。

 

登山家だった服部文祥先生は、今や狩人となって日本の野山を銃を担いで駆け巡っているのだ。

僕が服部文祥先生を好きなのは、そのマッチョな生活だけではなく、社会との距離感にある。先生は社会を否定的に見てはいるが、しっかりと認めている。横浜生まれだし、インテリだし、雑誌編集者だし、自宅は住宅街にある。

でも現代社会のど真ん中の自宅のベランダに、猪や鹿の皮を干しているのだ。

先生は現代社会と自然の狭間にいる。著作には単なる自然礼讃や現代社会批判ではなく、目に見えない境界線でうろつく男臭いカタルシスがあるのだ。

 

で、結局先生は超楽しそうである。

獲物を撃ち殺して原始の雄叫びまであげている。

そういった境界を行き来する人間というのは、如何に偽善の網に捕らわれないかが重要なのだ。そこをしっかりと見据えて、理路整然と語っちゃうところが先生なのだ。ジム・モリソンやカート・コバーンはそれが出来なくて死んでしまった。

自分を冷静に見つめつつ、肯定するというのはかなり勇気がいることだ

 

要するに消費というわかりやすい記号の中で承認を求め傷つけ合うのではなく、自分とちゃんと相対せるかどうかに尽きる。

それはポーズではなく、本当に認めることができるかどうかなのだ。

結局僕の場合、世界一周の旅に舞い戻ってしまいそうだ。

危険だ。たぶん今行ったら二度と帰ってこないかもしれない。

そんな時は垂直の記憶でも読んで頭を冷やそう。

究極の人間がそこにいる!

 

 

長くなったので、気が向いたら続きを書きます。