ライカR8とバリオエルマーR35-70/3.5のレビュー
ライカM3とライカR8が我が家に鎮座するとは、ほんの一年前までは想像もしませんでした。これぞ沼画。
ここに至る過程の詳細はこちらに譲るとして、ライカR8の情報が少なすぎるので久々にレビュー記事を書いてみました。
これほど需要のない記事に時間を賭けるのは、自己満足以外の何ものでもありませんがこれが快感になってくると結構キテます。
レビュー動画も作ってみました。
詳細の前に一度ご覧いただくとイメージしやすいと思います。
ライカR8への道
非常に簡潔に述べると、
・1954年にライカはレンジファインダーカメラのM3を発表
・当時M3は革新過ぎるカメラであり、圧倒的なスペックで他メーカーを圧倒
・世界中のメーカーが「M3に勝てない」とレンジファインダーカメラを諦め、一眼レフカメラへパラメーター全振りする。
・1970年代になると一眼レフカメラが主流となったが、ライカはM3の栄光に引きずられ、時代に先乗りしすぎて時代遅れとなる見事なウサギとカメ現象を起こす。
・日本のミノルタと提携し、何とか一眼レフカメラを販売継続するも業績不振となり会社は身売り。ライカ暗黒時代となりライカM4-2のような伝説を生む。
・ライカRは、ライカフレックス後にミノルタのカメラをベースとした一眼レフカメラであり、ほぼミノルタ製。R3~R7は、日本人の母とドイツへよく出張に行く日本人の父の子供、いわゆる日本人であった。
そして暗黒時代の地獄の底から東西ドイツ統一を見上げてちょっとしたあとの1996年、完全自社設計のライカR8が生まれたのである!!!!
ライカR8のご尊顔
開封の儀ってどうしてもやりたいよね?
カメラのナニワさんより購入。
丁寧に検品後、ホワイトな対応でゆったり送っていただけるので、だいたい一週間近く悶えさせてくれるドSなカメラ屋さんです。
いいわあ~中古フィルムカメラの『いきなりプチプチ状態』いいわあ~
もうシルエットからしてヤバい。
きゃあああ!ご尊顔!
これがドイツ生まれの高級バクダンおにぎり(Leica印)
見ておわかりのように、完全自社設計として世界中のライカファンが待ちに待って現れたのがこのバクダンおにぎりだったので、賛否両論というかギレン・ザビ並みに否!だったらしい。
そこがまたええのよねえ~
しかも買ったら5000円以上するストラップまで付いとるじゃないの。
レンズは後述。
またすごい迫力。
幅✕高さ✕奥行 158x101x62mm
重量 890 g
まさにバクダンおにぎりでしかないですが、後述するように人間工学デザインらしいのです。
ドイツの技術は世界一!さすがバウハウスを産んですぐ潰しただけある。
先輩のM3と比べたらこれですよ。
もう思想が違うねこれは。阿藤快と加藤あいくらい違うよ。
シャッターは電子式(16秒〜1/8000秒)
当時、8000分の1は凄かったようだ。
上下走行式金属羽根電子制御フォーカルプレーンのガッシャガッシャする所は、裏面を開けていつまでも眺められる機能美です。
パルパス割れあり。光漏れ防止のパルパス材が割れております。
モルトと同じようなもので、まあ古いカメラだといたしかたないか。
モルトは自分でも張り替えられるようですが・・・
おそらく史上最大級のシャッター速度ダイヤル。
もう、ぐりぐりの感触がたまりません。なんでこんなにデカいのかは検討も付きませんでしたが、実際にこのデカいカメラを覗き込みながら操作すると死ぬ程しっくり来ます。
「こ、、これが、、、独逸はんの人間工学っちゅうやつかいな」
手前は測光モード切替ノブ。
レバーを押して動かすタイプです。
スポット、評価、中央部重点平均測光が可能。
中古だと使ってみないとわからない露出計でしたが、案外大丈夫でした。
しかし昨今のデジカメレベルは求めないほうが良いので、脳内露出計を補助で使うと良いでしょう。
シャッター巻き上げレバーの感触は、M3のような耽美さはありませんが、それでも「ほわ~ん」ときます。
これはやってみた人にしかわからない「ほわ~ん」
M=手動、A=絞り優先、S=シャッター速度優先、P=可変プログラム自動制御
Fはストロボ連動のフラッシュモードですね。僕はまず使いませんが、さすがプロフェッショナルカメラ。スタジオ撮影とかで本来は使ってやるべきスペックです。
このアルファベットのフォントがホントに良いですよね。
Appleに通じますが、フォントってホント大事ですよ。
フィルム巻き戻しレバー。
至って静かです。NikonF3のジャコジャコ鳴る感じも好きですが。
三脚やモータードライブ(死語)も付けられます。
そして、電池を左側のレバーを倒してから入れるんですが、めっちゃわかりにくい。
よってYoutube様の力をお借りして、異国の有志によりご教授いただきましょう。
とにかくR8は情報が少なくていろいろ苦労しました。
Leica R8 (and R9) - Removing the Battery Compartment and Mounting the Motor Drive
けっこう力とコツとちょっとの勇気がいります。
「TOSHIBA CR2G 2P カメラ用リチウムパック電池」を入れました。
こんな電池初めて買いましたよ。
こんな感じになります。写真を見て思ったでしょうが、電池カバー、デカすぎますよね?
「え?どこまで外れるの?」という問いと向かい合いながらカバーを外します。
なのでちょっとした勇気がいります。
お背中、デカいわ!そのくせ独居房のような小窓液晶。
でもMADE IN GERMANYですべてが赦せる。
左の小窓はフィルム確認用、右の小窓はフィルム巻き上げ確認用、デジタルとアナログの二刀流です。フィルムカメラ初心者にはありがたい。
パカッと開けるとISOやセルフタイマー調整ができます。
ISOはフィルムを入れると自動読み取りしてくれます。すごい!
自動読み取りの場合は、液晶に撮影枚数とDXの文字が出ます。
中華スマホ撮影なので画像が悪いですが、ファインダーを覗いた感じ。
ファインダー倍率0.75倍。
ファインダー内は若干青味がかっているというレビューが多かったですが、なんか黄緑っぽい気もします。
さすが一眼レフカメラなので、ボケが見えるのはなんとも嬉しい。M3使ってると、そこの所は頼もしく感じます。
でもこのピント合わせ、中心の円の中の円が上下に割れていて、そこのズレを合わせることでピント調節します。
少々癖があるので、慣れるまで時間がかかりました。
M3、F3、バルナックライカⅡfと並べてみました。
壮観!観艦式のようじゃないか!まさにお財布星の屑作戦!
底面写真を見て、ライカ沼先輩たちはピンときたと思いますが、このR8は恐怖の初期型です。R8初期型は故障率が異様に高い欠陥品であり、完全自社設計してこれかよ!ってなった曰く付き。
でもですね、このシルバークロームがどうしても欲しかった。
亜鉛ダイキャスト素材の軍艦部のシルバークロームがクール過ぎます。
他にはブラックもありますが(そっちのほうが人気ある)、僕はシルバークロームにドーパミンドバドバです。
ということですが、現在R8シルバークロームはネット上でもほとんど見当たりません。
なぜならR8が電子シャッターだから。
もともと人気がないのもありますが、電子シャッターだと壊れた際に修理できない場合が多いです。電子部品や基盤部分の破損の場合、もうパーツがないからです。
機械式シャッターの場合、修理できる熟練工がいる限り、わりとなんとかなるようですし、そもそも機械式シャッターは壊れにくいです。
しかも初期型も後期型も値段がそんなに変わらないので、ネットの海で数少ないB判定のR8シルバークロームを手にしたわけです。
しかし、初期型は無償補修してくれたケースが多いようで、希望的観測でメーカーによる整備を受けたカメラであると思って(恐る恐る)使い倒します!
バリオエルマーR35-70/3.5
ライカ、ライカ言うてますが、このレンズを買いました。
これは日独ハーフというか、限りなく日本に近いドイツ、謂わば東京ドイツ村です。
光学系はミノルタの設計、機構系はライカの設計。
ライカRレンズは、Mレンズに比べると安いですがそれでも最近はオールドレンズ遊びユーザーのおかげで値上がり中。
M3でsummicronの50mmをすでに持っているので、欲しかったのはRレンズのsummicronの35mm、しかしこれが高い。
M3は単焦点一本勝負なので、あとR8にズームを付けて二刀流にすれば最強じゃないか!と思ったこともあり、何が最強かは結局わからないままですが、ズームレンズに食指が動く。
なんせバリオエルマーは安い!なんせほぼ日本製。マニアには偽物呼ばわりされていますが、ライカの皮を被ったひとつ上の日本レンズだと思えば上等じゃないか!
要するに、妥協して経済性と利便性を取ってバリオエルマーにしました。
35-70mmという中途半端なズーム域、そして何より最短撮影距離が1mというコミュ障レンズです。
絞りは3.5-22で羽根の枚数は6枚。
「シュッ!」とフードが飛び出ます。
フィルターサイズはE60。希少なサイズなのでキャップやフィルターがほとんど売って無く、あってもめっちゃ高い。
70mm
35mm
割と伸びます。どういうわけか、広角だと伸びて、望遠だと縮みます。
だれか原理を教えて下さい。
3カムレンズ。分かりづらいですが、手前のはみ出したパンツみたいなパーツが3カム目です。
R8は3カムレンズかROMレンズしか使えません。
それ以前のRレンズは接続も不可。
ROMレンズはR8、R9専用レンズですが、かなりお高いのにレンズ情報の伝達くらいしか違いはないです。
でかい!ごつい!
バリオエルマーは他にもシグマが作っているモデルもありますが、ミノルタエルマーはその中でも歪曲などが少なく使いやすいレンズです。
バリオエルマー兄弟はどれも一長一短あり、ミノルタエルマーはやはり最短焦点距離1mがネックなようです。
なのでコミュ障な優等生レンズって感じですね。
でもレンズの意匠はどうみてもLeicaですねえ。
シルバークロームにブラックレンズ、たまりません!
大艦巨砲好きな国民同士の共作。
Nikon D750+Nikon AF-S NIKKOR 24-120mm f/4Gのコンビと比べました。
最大径x長さ:84x103.5mm 重量:710gの巨砲と比べると小さく感じますね。
それにしても日独のデザイン思想が顕著に現れてるなあ。
このバクダンおにぎり、信じてもらえないと思いますが「すっごい持ちやすい」です。
レンズ付けて重心が変わっても、とにかく手にフィットしますし、各種操作がしやすい。
まあ、僕は手がかなり大きな方なのもあると思います。
ですが、これが人間工学デザインってやつなんでしょうかね?
フィルムの入れ方
フィルムの入れ方の情報がほとんど無くて、途轍もなくなりました。
英語サイトの説明を見たり、YoutubeでR8ストリートフォトしている動画をコマ送りして見たり・・・
実際は至って簡単、まず左側にフィルムを逆さに入れ、右下の赤いマークのところまで伸ばします。
このままフィルム巻取りの歯車のようなパーツにフィルム穴を合わせ、閉じてからシャッターを2,3回切れば良し。
最初、赤マークのところにフィルム先端を深く差し込んでしまい、中でフィルムがたわんで巻き取れなかったりしました。
実際は赤マークのところにフィルム先端を置くだけで良かったです。
撮影終了後は、シャッターボタン横のRボタンを押して、巻戻しレバーを回すだけで良いです。
ライカR8作例
作例はnoteでまとめました。
まとめ『ライカのデザイン』
いやあ~M3で満足すると思ったんですがね、人間の欲というものは果てしないです。
僕みたいなのはスターリン時代のソ連に生まれればよかったんでしょうが、そうもいきません。
ライカ=あえてのLeicaが欲しくなるのは、ブランドもありますがやはりデザインですね。
ただの見栄っ張りなデザインとは違い、考えつくされた機能美です。一見わからないところがドイツ流でしょうか?
このバクダンおにぎりも、手に取って一度シャッターボタンを押してみたら考えが変わります。
M3も長方形のカメラに見えますが、手に持った瞬間に製作者の意図がブワッと伝わってくるんですよね。
Leicaの中の人「貴様にはわかるかい?うん?」って感じ。
日本製カメラの中の人「え~とですね、この機能は〇〇でして、ここが当社の技術の粋を集めて作りました・・・」という感じ。
道具として使いやすいのは迷わず国産機です。日本製カメラは撮影手段としてのカメラと捉えれば最高品質だと思います。
Leicaはカメラをカメラ足らしめるデザイン、イデオロギー的な工業製品です。ここにブランドイメージが生まれ、所有欲を満たしてくれる源泉があるように思います。
ここに何度も潰れそうになっても蘇り、バカ高いのに必死でついてくる強烈なファンを抱える理由があるのだと思います。
中古になっても値が下がらないLeica製品を支えるのは、こういう沼の中で将棋させるくらい余裕のある先人たちのおかげです。
以前も書きましたが、こういうのに弱い僕のような人間がズルズル沼にハマっていくんですよねえ~
た・ぶ・ん、当分カメラ買いません。
当分は吉川M3と小早川R8の両川体制で行こうと思います。
それにしても、カメラって素晴らしいですよねえ~
おすすめ記事
これで最後だと思ったのに・・・
実録:なぜ私はLeicaM3を買ったあとにLeicaR8を買ったのか?
題名を見て何が起こったのかわからなくなってあわあわしている諸兄には申し訳ないが、これは事実である。
恐るべしカメラ沼!レンズ沼!ライカ沼!
では、そんな病理に蝕まれた自らの魂を献体し、LeicaM3からLeicaR8(恐怖の初期型)までの道のりをブリッツしていくことにしよう。
LeicaM3より愛をこめて
この記事には思いのすべてを託しました。
M3購入は悲願であり、夢でした。
それこそ、V2ロケットばりに思いを託して、人生最後のカメラくらいの気持ちだった。
・・・が・・・というか・・・チェンバレンを装ってはいたが内心チャーチルばりの確信で先行きがきな臭いことは覚悟していた。
それで「RICOH GR」を買っていた。
これはレンジファインダーカメラの手軽さ、軽快さ、そして写真撮影の本来の趣味性をM3にこれでもかと突きつけられたのが原因だった。
M3のおかげ?で楽天ポイントが腐るほどあったし、ということでカメラを買ったポイントでカメラを買う、まさに二毛作である。
もうこうなればバスに乗り遅れるな!である。
慰めのNikonF3
でもやっぱりフィルムカメラは楽しい。
だがどうしてもLeicaM3は丁重に扱いたくなるし、家族や都市スナップ撮影向けのカメラだと思う。
カメラに厳しい環境だったりすると、さすがに半世紀以上昔のカメラを持ち出すのは気が引ける。
ということで、そういう時にはいただきもののF3を使うことにしたのだが、このF3ちょっと挙動がおかしい。メッサーシュミットMe262くらい挙動がおかしいんです。
たぶん露出計が少し狂っているか、僕の露出の取り方が下手だったせいもあるのだが。
あとフィルムのズレなんかもあるしなあ。
そんな時である。
また僕の脳内で短絡的な思考回路がショート寸前となった。
『登山なんかで使う時は、露出計付き機械式シャッターのカメラが良いのではなかろうか?』
頑強、故障しづらく、電池問題なし、まさしく(沼)男の中の(沼)男が持つべきカメラ。
実はLeicaM3並みに欲しいカメラがあった。
NikonF2チタンモデルである。これはかの有名な冒険家植村直己が北極などの極地探検で使用するために使ったウエムラスペシャルの市販版という位置づけ。
植村直己は僕が尊敬する戦後日本人No.1であり、
この本で人生狂わされた口である。
まあどう狂わされたかは、このブログが物語っている(最近はカメラ趣味ブログになっているが)
『家族や町での撮影はLeicaM3、自然はF2にすればもう最強じゃないか!』
何が最強かはわからないが、男子ってこういう所あるんですよ。小学生時代は傘があればアバンストラッシュとか九頭龍閃できたわけですよ。
というわけで、F2を調べ上げる。
フィルムカメラ好きは、この購入候補の徹底調査こそが「本番」である。
購入したあとの撮影なんか実はどうでもよく、購入までの過程こそがカメラ沼人間の生きる醍醐味。
本末顛倒ではあるが、悲しいけどこれが沼なのよね。
もちろんF2チタンモデルはプレミア価格で20万前後という国産のくせに高飛車高慢ちきなお値段。
でもこの値段のおかげで所有感と物欲を満たしてくれるというのが、カメラ業界では常識。
一般庶民でライカとかに手を出す層は自他ともに認める「ネジが外れている状態」であるため、金銭感覚も逆断層となっている。
ネジ外れはうまく機能すればグデーリアンになれるが、イカれると牟田口廉也になる。
だが僕は辻政信になることに・・・
NikonF2は二度死ぬ
NikonFは非常に良いカメラであることは言うまでもない。
実際、F3とD750というFマウントカメラを所有しており、Nikonについては絶対の信頼と羊羹の甘みを知っている。
しかし、F2を買ったとしたらどうなるか?
沼賢者タイムである。
「電子シャッターだけどF3でも十分過ぎるのに、機械式というだけでF2を買うのか?」
「F3をメンテナンスに出せば良いじゃないか」
「F2買っても、結局チタンモデルが欲しくなる病が重篤化するだけな気がしてならない」
「あえてのキャノン?ペンタックス?」
「いやいや、無骨なブラックF2フォトミックの扶桑型のような歪なシルエットこそ至高!」
「F3とF2並べたらF欲しくなって、さらにSとかにいってしまいそうじゃ」
「諸君!一旦冷静になろう!」
我がLeicaM3はsummicron沈胴くん(50mm)のセットでしか使わないつもりだ。
Mレンズは価格がビスマルク級であるため、このセットしかダンケルクという状況である。
そもそもM3は50mm専用機と言っても過言ではなく、そして僕が一番好きな画角でもある。
家族や都市部でのスナップ写真には歴史上でも最適解なセットメニューとなっている。
だがスマイルはつかない。
デジタルはD750(レンズいっぱい)とGRがあるので、もう十分すぎるほど。
あとはフィルムカメラで、M3以外の用途をカバーしてくれるカメラが欲しい。
そうなれば「ぼくのかんがえたさいきょうかめら」旅団が完成するのだ。
そこでF2という選択肢であったが、やはりF3でも十分だという気がしてならないし、今更Fマウントレンズをゴロゴロ増やしてもなあという感じがしてきた。
F3は素晴らしいカメラであるし、ジウジアーロデザインもナウいセンスで好みではあるが、なんせ「ちゃちい」のだ。
これはM3のせいだ。M3の小さいのにズシッとくる「圧倒的高密度感覚」。ずっしりと何かすごいものが詰め込まれてパンパンではちきれそうなのに冷静沈着な感じがたまらないのだが、それと比べるとどうもちゃちい。
まあ価格差からいっても当たり前なのだが、ここで僕は数週間にも及ぶ悶絶の自己内省の闇の中から真理を文章化することに成功した。
「フィルムカメラは完全なる物欲の独壇場」
そうなのだ。フロイトもびっくりの自己洞察、そうだ、このご時世フィルムカメラなんてアマチュア者にとっては、機能や作品で勝負するために買うものではない。
「所有欲」である。
結局、僕にとってNikonは「機能」であり、所有欲を満たすものではない。
まさに国産製品の全てに言えるのだが、逆説的に僕のフィルムカメラに求めるものはApple製品的な所有欲なのだ。
そもそもLeica買った時点でご明察なのだが、ミーハーばりばりな軟派カメラ趣味者の端くれだと自認する時がついに来たようだ。
『デザインと物欲のみで決めちゃおう』
あ、完全に開き直った。
最近、仕事頑張ってるし、冬ボーナス1円も使ってないし、腕時計買うの我慢したし、冬タイヤ自分で替えたし、正月以外は発泡酒で我慢したし、し、し・・・
無限に続く言い訳、その言い訳のために手にした本でまた散財。
そうです。前回の記事は新しいカメラ購入のための永い言い訳なのです。
私を愛したLeicaR8
そして手にしたのは・・・・
LeicaR8キミに決めた!
自分でも何が起きたのか皆目見当もつかない、まさに欧州情勢は複雑怪奇!
まさかちょっとしたF2欲しさが、二転三転百転したあと王立宇宙軍のロケットで宇宙に射出されてSOLで打ち戻された感じです。
そう、またライカ、結局Leica、なんてったって Ernst Leitz Wetzlar!
しかもライカの一眼レフだよ。
Rレンズだよ?
F2にしっくりこない僕は、またマップカメラ島やナニワグループオンライン山の定期偵察へ向かった。
「う~ん、Mライカはやっぱりダンケルク」
「ここは中判カメラや!」
「倫理的にカール・ツァイスという転換」
「あえてのNikonF5?」
「それともα7Sでオールドレンズ遊び?」
もう自棄糞になった僕は、ライカRの魔境に踏み入れた。
ライカR=ライカの一眼レフは、M3に胡座をかいて一眼レフの潮流に乗り遅れたライカがプライドをかなぐり捨てて主要敵国JAPANのカメラメーカーに作らせた『とりあえず一眼レフもありまっせ』モデルという印象であった(ライカフレックスを除く)
・・・が、しかしそこでライカR8というバクダンおにぎりみたいなカメラが目についた。
そこには、僕のようなヴィシー政権的精神の持ち主を一発で撃ち抜く一文が書かれていたのだ。
『完全自社設計』
なんやて工藤!?
R8とR9だけ完全自社設計やて!?
なんと、1996年発売のR8はライカが作った一眼レフなのであり、R9は通称R8.2とか呼ばれてるマイナーチェンジモデルなので、R8こそライカが本気で拵えた一眼レフカメラなのだ!
さらに汪兆銘政権的精神の持ち主である僕が膝から落ちる一文が書かれていた。
『めっちゃ不評』
この田舎のコンビニのバクダンおにぎりのようなライカらしからぬ妖気漂う異様なデザインは、発売当時大不評。
まさに大島てるも大注目な曰く付きモデル。そしてRシリーズにとどめを刺したジオング的存在なのだ(R9でおしまい)
あの工業製品を超えた機能美により世界から絶賛されたM3を作ったメーカーが、高級バクダンおにぎりを拵えたのだ。
ドイツの貴婦人が息子の弁当箱にバクダンおにぎりを詰めてよこしたのであるから、そりゃそうなるわなという気がしないでもないが、曰く付きモデルであることは言うまでもない。
さらにさらに大東京帝国的精神の持ち主である僕を圧死させる一文が書かれていた。
『Rレンズは安い』
安いというのはライカMレンズに比べると相対的に安いという意味であり、数十年前の設計のレンズにしてはミュンヘン一揆を起こしたくなるくらい不当に高いのには変わりはない。
しかし、ライカレンズが10万円以下で買えるなんてバーゲンセールでしょうと思うくらい金銭感覚がツァーリ・ボンバしているのでこれはたまらない。
といいつつ、買ったレンズはまたひと悶着あったのだが・・・
レビューはこちらです。君はLeicaの深淵を見たか?
No Camera To Die
もうさっき書いたとおり、購入理由はデザインです。
デザインとは視覚情報だけではなく、その周辺領域にあるストーリーが含まれます。
デザインは無機質なものではなく、有機体であり、生物のようにDNA情報を脈々と受け継いでいます。
このR8も、ライカという歴史、M3が完璧であるが故に隆盛を極めた一眼レフカメラという歴史、ミノルタライカという歴史、そしてそれを乗り越えて生み出したR8がバクダンおにぎりと言われ罵倒された歴史などなど、この周辺領域の情報量と密度が多ければ多いほどデザインは雄弁となり、人間の感受性と脳へ直接訴えかける煽動家となります。
この話を職場の女性にしたところ、「iPhone買えば良いじゃん」という完全無欠の絶対真理を説かれてしまい、枕を濡らしたのは言うまでもありませんが、男という生物はこういうのに弱いんです。
とにかく男というのは、こういうデザインの裏側にあるストーリーを愛します。
袋とじページが気になってしまうのも同じ原理です。
男という生き物が、女性から見て馬鹿な買い物をするのは偏にこのストーリーによるものです。
枚挙に暇がないですが、例えばハーレーダビッドソンのバイク。クソ古い設計の音だけうるさい鈍重ノロノロバイクであり、最近の国産バイクのスペックに全くカスリもせず、だがしかし不当に高いにもかかわらずバンバン売れています。
ですがHarleydavidsonには、ロマンがあります。ちょいと跨がればBorn to be wild!、ダ~ダダッダダッダッダッダ♪
時計もそうですよね。クロノグラフの方が圧倒的に正確だし維持費も安いし、最近だとソーラー電波時計なんてまず狂わない。こんなご時世にゼンマイ巻き巻き機械式腕時計に大枚払って、オーバーホールにさらに大枚払うなんてメーカーのカモじゃないかと思われるでしょうが、ステータス=ストーリーという高密度な情報により重力の磁場が乱れて男児垂涎の逸品となります。あと絶対10000mも潜らねえから。
アウトドアメーカーの異様なスペック競争、そんな日に山なんて行かねえよってレベルのスペック狂想曲。
車、ゴルフ、釣り、切手集め・・・まさに枚挙に暇がない!
話が周回軌道を逸れましたが、要するにライカとはこういう情報量と密度が圧倒的なんです。
ライカはブランドイメージ作りが美味すぎですね。AppleやROLEXやHarleydavidsonなんかもそう、国産メーカーが死ぬほど苦手なブランド力ってやつです。
結局資本主義経済的に見ると、ライカはカメラ業界シェアを一瞬で日本メーカーにぶち抜かれましたし、スイス時計メーカーもSEIKOのせいで軒並み潰されましたし、英米の車・バイクメーカーも日本メーカーに杉谷善住坊みたいに無残な・・・
ですが、人々が語り合うのはブランドです。
昨今、家電などのシェアが中韓メーカーに制圧され、身売りする大手会社まで出ている日本ですが、結局ブランド力が無いと新興メーカーのなりふり構わない物量作戦には勝てません。あくまでも工業製品なので、人々は東芝のテレビが欲しいのではなくて、程よくきれいに映るテレビが欲しいのです。価格競争に陥ると、日本メーカーの製品が勝てなくなるのは当然でしょう。
ライカは名前をコロコロ変えながらも、細々と野太く生き残っています。
ボードリヤールが『消費社会の神話と構造』で説いた通り、大量消費社会においてモノを需要ではなく社会文化的な記号として消費するのがブランドです。
平たく言えば、モノを機能ではなく記号として消費することで、個性を得るという感覚です。
現代社会は誰もが似たようなモワッとした存在です。階級も昔のように社会通念として覆っているわけでもなく、誰しもがスマホやユニクロの服など似たようなものを手に入れることはできます。
ミニマリズムが流行っていますが、これもまた記号消費であると思います。メディアに見せびらかすことがすでに記号消費のような気もしますし。
現代は記号=情報ともなっており、SNSなどでせっせと記号を消費することで個性を演出しています。
カメラでいえば、もうすでに手段としての撮影機能はスマホで十分です。撮影を本来の意味での情報の記録や芸術としてみても、iPhoneかデジカメ中級機で十分過ぎるスペックです。
再掲しますが、僕は最近のプチフィルムカメラブームは、工業製品としてのカメラ需要のピークを突き抜けたからこそ起こった現象だと思います。
フィルムカメラ愛好者は、リンク記事で書いた通り、工業製品としてのカメラであった時代の自己コントロール感が充足できる不便な機械式カメラを愛しています。
これは人間の脳の自己コントロール感を重要視するということが、そうさせるのではないかという考察です。
便利過ぎるカメラは、撮影行為で主体性を感じるタイプの人間には合わないのです。
さらにカメラはもうとっくに記号であり、だからこそ「あえて」フィルムカメラを手にしてもいるでしょう。
「フィルムカメラという記号で、個性を演出し、アイデンティティを形成する」
フィルムカメラを持っているというだけで、アンチ主流派という記号も持てますし、カメラを本気でやっている人という記号や、単なるオシャレという記号もあるかもしれません。
これ全部自己満足なんですが、この自己満足の源泉が記号であり、その記号の意味は十人十色なのです。
他者との差異を見出すということが難しい現代において、フィルムカメラが持つ記号がどのように作用するかというのが、フィルムカメラの存在意義となっていると思います。
そもそもですが、カメラを使っているという時点でそれは記号消費なんですからね。
ここまで言っておいてなんですが、記号消費が悪いという意味ではありません。
現代社会=記号社会なのであり、人間は他者との差異によって自らを位置づける生き物です。もうみなさんバンバンSNSにカメラを挙げちゃいましょう!
要するになんでこんなに長々しく演説をしたかというと、ライカR8を買ってしまったことへの贖罪という名の言い訳です。
要するにライカR8を選ぶ俺なんてかっこええんだ!という記号であり、最近のデジタルカメラのスペック戦争による価格高騰に嫌気が差したのとレタッチとか面倒なのとそもそも撮影よりカメラやレンズ調べてる方が好きなのが混ざり混ざってR8が家に届いたのです。
いや~これほどまでにわけのわからない高額買い物をしたのが産まれて初めてなので、言い訳の量も膨大になってしまいました。
それもM3買ったばかりなのにね。う~ん、最終的には『沼』としか言い得ない。
以上、冬のスターリングラードより愛を込めて
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これが最後だと言ったのにね・・・麻薬中毒者みたいなセリフだなあ らいか
脳とフィルムカメラ~なぜ人はデジタル全盛期にフィルムカメラを手に取るのか~
「なぜこのデジタル全盛期にフィルムカメラを使うのか?」
時代を逆行する嗜みを突き詰めると、一体そこには何があるのか?
高騰するフィルム代と現像難民、実際フィルムやってる人間からすると真理は経済性にあるが、その不可解な行動の根源は何なのか?という疑問はあった。
今どき、この半世紀以上昔の瞳AFどころか露出計もない完全機械式カメラに数十万出すなんていう『動機』の『源泉』は何なのか?おそらく僕以上に嫁さんが聞きたいのだろうが、これはタレス以来の人類の真理への知的欲求にも関わる重大なテーゼである。
そんなフィルムカメラへの破滅的な判官贔屓の原因が、『脳』にあるのではないかというのが今回の問題提起である。
脳科学から眺めるフィルム愛好者
ここに一冊の本がある。
『事実はなぜ人の意見を変えられないのか-説得力と影響力の科学』という世界的ベストセラー本である。
言うに及ばず日本のメディア業界というのは、洋画や洋書の題名を魔改造するのがエリートたる使命だと考えているのだろうが、原題は『影響力のある心:他者を変える脳の力について』という感じらしいとAmazonの中の人が教導してくれている。
邦題は第一章の内容のみを指し、トランプ政権下で揺れるアメリカからの舶来物ですよという打算的な捻り以外の何物でもないが、この本自体は人=脳は案外いろんなものに影響を受けているんですよという主題である。
まず挙げておきたいのは、脳はウホウホ原始時代からさほど変化していない。
ダイエットできないのは食料が安定供給されない狩猟採集生活の名残であるし、恐怖のために動けなくなるのはサーベルタイガーの記憶のせいである。
そんな人間の脳は、この現代において『デジタル時代にフィルムカメラを愛する』という極めて非経済的反ダーウィニズム的不可解行動をする一派を生み出した。
ここからはなぜそのようなアウトサイダーが存在するのかを、本書に沿って導き出してみよう。
人が本能的に求めるコントロール感
本書によれば、人は自分が環境をコントロールしているという実感がなければ不安を感じてしまう生き物だという。
飛行機恐怖症や、渋滞でのイライラ、幼児が何でも自分でしたがる等々、人間は自らがコントロールしているという感覚を重要視している。
結果はどうあれ、自分で選択したほうが押し付けられたことよりも満足度や幸福度は高いという研究結果があるのだ。
自由選択後の結果が好ましいという経験を繰り返すうちに、私達の心の中では選択と報酬の関係が強固になり、選択そのものが報酬ー探し求め
享受するものーになってしまうようだ。
実際のところ、人間は選択することで、脳の報酬系が活性化される。
報酬系とは、人間を生かしたり子孫を増やす行動へ促す装置だと思ってもらえば良い。「生存や子孫を増やすこと=ヒトとして良いこと=報酬」とするのが脳である。
要するに人は、主体性を感じていたい生き物なのである。よってたとえ人に選択を委ねる時でも、「自分がこの人に選択を委ねた」という自負があるのであれば、満足度は変わらない。
著者いわく、脳にスローガンがあるとすれば『周囲の環境を支配せよ』らしい。周囲の環境を支配することが、繁栄や生存につながるからだ。だから脳の報酬系を働かせ、主体的に行動するように仕向けている。
この文章を読んでドキリとしたあなたの冷蔵庫の中には無数のフィルムが積まれており、押し入れを開ければ防湿庫がうず高く積まれていることだろう。
僕が思うに、カメラという趣味そのものがこの主体性を保つツールとして存在しているように思う。
昨今の高度な科学に囲まれた情報化社会において労働や生活を行うことは、非人間的な行為であるという逆説的な環境に我々は置かれている。ウホウホ原始時代には、時間の概念は大雑把であったし、有給休暇や残業なんて知らないし、信号機もATMも無いし、光熱費や消費税もなかった。
便利で豊かな生活を享受するためには、ウホウホ原始時代ではあり得なかった非主体的でよくわからないルールに縛られた日々を送ることになる。
そんな中で、趣味とは自己の主体性を担保するツールとして存在し、だからこそ現代社会において子孫繁栄よりも重要な「マネー」を湯水のように撒き散らして我々はカメラやレンズを買い漁るのである。
そしてその中でもとりわけ主体性ーコントロール感を求めるアウトサイダーたちは、必然とフィルムカメラに流れていく。
なぜなら昨今のデジタルカメラは、もはやコントロール感はなく、コントロールされてる感の方が強くなってしまったからだ。
便利過ぎる。シャッターボタンを押すだけで、簡単に撮れる。素人でも子供でも撮れるのだ。iPhoneなんてタップするだけで一眼レフカメラ並の写真がインスタ女子でも簡単に撮れてしまう。
これこそ、カメラという製品の至上命題であったであろうが、これがアウトサイダーには主体性の放棄として映ってしまった。
カメラが技術進歩することは大いに結構、本当に素晴らしいことではあるが、果たしてこれは撮影していると言えるのであろうか?
そんな人類の99.98%がどうでも良いと思うことで夜な夜な苦悶しながら、アウトサイダーはある方向へと導かれていく。
感情と選択
ドナルド・トランプは大統領選にて、「予防接種のせいで自閉症の子供が増えている」と演説した。
対立候補は最新の科学データでこの説を否定したが、トランプ支持者は揺るぎなく彼を信じ、そしていろいろあって結局トランプは大統領になる。
トランプは状況をコントロールしたいという欲求と、それを失うことへの不安を巧みに利用している。
トランプは理論やデータではなく、感情に語りかける。
人間の価値判断は、結局のところ感情なのだ。どんなにデータや科学的な意見を聞いたとしても、無意識のうちにでも感情によってすべてが決まってしまうことが多い。
例えば、人間の感情は簡単に伝播する。映画館で同じ映画を見ていれば、年令や性別が違っても、似たような脳の働きが起きているという。
ケネディの演説のように、人々の感情を揺り動かせることができれば、大衆の意見を一気に変えてしまうこともできる(世論調査で支持率の低かったアポロ計画を、ケネディは演説でひっくり返した)
そして人間の脳は情報が大好きなようにプログラムされている。先程の報酬系がここでもまた活性化される。
人間の脳にとって情報を得るということは、食物を得たり、異性と◯◯することと同じ神経作用だったという。これは情報は生存に不可欠だからだ。
そしてそして現代においてその情報源が広告であり、SNSだ。
今はフィルムカメラブームなんて一部で言われているが、僕もその小さなムーブメントの端くれにいる。
ブームに乗ったというわけではなく、ブームによって情報が増えたことにより、それに引っかかったというべきだろう。
上記のように、昨今の優秀過ぎるデジタルカメラ、さらにPhotoshopなどのレタッチ技術を、「主体性の乖離」として眺めていた(というか差し向けられていた)僕は、この情報の波に乗ったというわけだ。
ネット広告やSNSでは、僕が普段からカメラや写真について検索しているのを学び、すぐさまハイエナの如くスマホやPCの画面の端っこに「情報」が現れる。
「あなたにおすすめの記事」とか「あなたにおすすめの商品」とか。
そしてTwitterやFacebookで、「あなたの友人がいいねしました」とか「あなたの友達かも」とか、そんなこんなで少しずつではあるが確実に僕の脳の記憶領域に浸透していく。
これはGoogleや大手SNSの膨大な情報、ビッグデータより、より僕の脳が欲しがる情報がせっせと運ばれるからである。
そしてこれは人間の脳の「知識のギャップを埋めたい」という衝動を利用している。
カメラ好きが「あの伝説のカメラマンが使っていたカメラ10種」とか「Nikonの失敗レンズベスト5」とか見ると食いつきたくなるのはこれだ。たとえそのカメラマンのファンでなくても、Nikonが大好きでも、なんか気になってしまう。
よって僕のようにカメラという趣味活動への情報ギャップを埋めるために遣わされた感情的な情報=フィルムカメラとの出会いという人は多いんじゃないかと思う。
かく言う僕も「これがフィルムカメラを始めた原因」なんてものは明確じゃない。知り合いからフィルムカメラをもらったというのもあるが、多分カメラをもらわなくても時期を前後して始めていたと思う。
何事にも主流派とアンチは存在する。振り子のように人々は流される。その動力は情報だ。デジタルカメラが主流の今、アンチテーゼとしてのフィルムカメラの存在が際立つのは当然なのかもしれない。
僕のような過激なアンチではない天の邪鬼的素質の人間は、こういう主流派と一線を画す・・・というのに弱い。
「機械式カメラは一生モノ」とか「デジタルには写せないフィルムの個性」とか「シンプル・イズ・ベスト」とか「絶賛国外流出中」とか「あえて今フィルム!」とか「結局はライカ」とか「死ぬまでに使いたいライカ」とか「史上最高のファインダー」とか・・・
現代脳とフィルムカメラの相性
以上のように、「このデジタル全盛期にあえてのフィルムカメラ」という選択肢へ至る道程を脳から捉えてみた。
まあ誰もがこんなのじゃないのはわかりきっているのであるが、大なり小なり最近フィルムカメラ始めた人は似たような感覚ではないだろうか?
僕自身はこれはとても良い傾向だと思う。
なぜなら人間はこういう「あえて」という人たちのおかげで文化的に成熟していった。多様性を残し、チャレンジ精神を働かせることで、人間は環境適応能力の高い種として世界に君臨しており、その御蔭で我々はカメラを手にとってニヤニヤできるのである。
もしこれでデジタルカメラが合理的だからとフィルムカメラが一切合切廃棄されてしまえば、人類はあのLeicaM3のシャッター巻き上げレバーの「はふん♡」という感覚を永遠に失ってしまったかもしれない。
それだけでなく、合理的過ぎれば過ぎるほど多様性は無くなり、単一化した写真ばかりになり、写真趣味なるものは消えて単なる16K記録用カメラが街中に張り巡らされるディストピアな世界が待ち受けているかもしれない。
そう考えるとだ。
現代脳においてフィルムカメラとはベストな存在ではなかろうかと思うである。
①主体感マシマシ
AFなし露出計なしISO固定WIFI機能なし・・・要するにすべて自己責任=主体的活動
②感情的機械製品
デジタルのように適当に撮りまくってあとから出来の良いのを探せば良いや!的な大量消費社会的思考から逸脱した、完全なる一写入魂の質的思考の権化たる機械製品。
一枚一枚に魂をねじ込み、特にポートラ400ならそれこそ全神経をカメラへ集約し寿命を削ってのファイナルフラッシュである。
そうすれば一枚に込めた感情的情報量はデジタルの比ではなく、さらに撮影前後の記憶すらこれでもかと練り込まれている。
そして時間的ラグまである。「幸せをお金で買う」5つの授業」によれば、先に金を払ってから商品にたどり着くまでの時間が空けば空くほど幸福度が上がるという。
フィルムカメラは、感情的機械製品であり、現代においてほぼ絶滅した希少な存在なのだ。
③ギャップを埋める存在
ネットやSNSでもフィルムカメラ界隈は慎ましくもホットな分野だと思う。
なんとなく熱量高い人が多い。
我々はロストテクノロジー化しつつあるフィルムカメラと心中を覚悟した同士であり、GoogleやSNS上の極小な情報ギャップを埋める殉教者である。
故に我々は大船をせっせと作るノアであり、金貨を敷き詰めるスダッタであり、鼻水入りのお茶を飲み干す石田治部であり、仕送りに余念のないテオであり、トンネルを掘り進めるベトコンであり、死に際にガンタンクを仕留めるノリスである。
以上のように、『フィルムカメラとは現代人と現代脳が豊かさと合理化のために吐き捨ててきた主体性と人間的感情と強固なコミュニティを手にすることができるツール』である。
もうこれほどのツールはほとんど残されていない。
現代はすでに家電と喋ったりできるイカれた時代なのだ。
最新式のデジタルカメラがあれば、全てを動画で撮影し、気に入った瞬間を写真に落とし込めたりできる。これぞ、古のカメラ小僧たちが追い求めた究極地であろう。
ブレッソン「決定的瞬間!ポチ!決定的瞬間!ポチ」
だがそんな時代にも細々と、しかし燃えたぎる欲動によってガシガシ使われるフィルムカメラ・・・
これぞカメラがカメラたる所以なのかもしれない。
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