ブッダガヤー、菩提樹の下で

8月29日

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ブッダガヤーはかの「お釈迦様」が悟りを開いた場所だ。日本ではあまり知られていないが、仏教の四大聖地の一つである。
そんなブッダガヤーだが、周辺はかなり治安が悪いという。ブッダガヤーも属するビハール州はインドで一番貧しく、識字率もインドで最下位、おまけに自然がかなり厳しい。
なので夜半につく列車を避け、コルカタから22時45分発の夜行列車で向かう。ブッダガヤーに近いガヤー駅までは七時間の道のりだ。
しかし今回は終着駅ではない。インド鉄道はアナウンスもなく駅の看板も見づらいので、途中下車はなかなか難儀である。


こういう時はお隣さんたちにお願いするのが一番良い。だいたい到着時間の目安はあるが、確証がないと不安で眠れない小心者なのが悲しい。
SLEEPER席のお隣さんは6人大家族だった。軽く世間話をした後に、
「あの、僕達ブッダガヤーに行くんですけど・・・」
「あら奇遇ですねえ。同じですよ」
ツイてる!なんてツイてるのだ。すでに仏の御加護が舞い込んでいる。おそろしいパワースポットに違いない。

 

朝5時30分、お隣さんに起こしてもらう。
雨戸を開けて外を見る。朝日に照らされた大地には、寝ぼけたような靄がかかっていた。
「この辺でお釈迦様は修行していたのか」
2500年も前に、たしかにここを歩いていた一人の人間が創りだした教えが、今や何億人もの人たちに広がっているのだ。

一応僕は仏教徒だ。でも大多数の日本人と同じ感覚で宗教というものを見ている。
それは正月に神社に行って、お盆には寺へ墓参りに行って、クリスマスにはサンタクロースを待ち、大晦日には「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞く。

 

日本人は無宗教だといわれる。それはキリスト教イスラム教のような強烈な一神教から見ればそうかもしれないが、日本的無宗教感こそが日本人の宗教であると思っている。
古くからある神道と外からやってきた仏教を無理くり混ぜ込み、その後も掃いて捨てるほど湧いてくる新宗教や新思想をなんとな~く丸め込んでしまえる日本人。武士と天皇大政奉還、明治国家、終戦、マッカーサー・・・歴史の転換期にガラッと頭の中を変えてしまえる日本人。やっぱり日本は昔からガラパゴス化している変な国だ。

 

そんなこと言ってもやっぱり仏教徒
お釈迦様が悟りを開いた場所と聞けば行ってみたくもなる。
しかし考えてみれば仏教のことを殆ど知らないのだ。歴史の授業で習うのは宗派と開祖の名前を覚えさせられるだけだ。
信長対本願寺とか比叡山焼き討ちなんかは大好物だが、思想面からちゃんと仏教を見たことはない。
僕の仏教の知識は手塚治虫の『ブッダ』しかなかった。
そんな男が仏教の聖地にやってきた。

 


マハーボディー寺院

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まさにこの場所でお釈迦様は悟りを開いた。
お釈迦様はブッダとも呼ばれるが、それは「目覚めた人、悟った人」という意味だ。
ようするにその悟った場所こそがここマハーボディー寺院というわけ。
朝も早いのに沢山の人が参っている。かといってそのすべてが仏教徒というわけではない。ヒンドゥー教徒もたくさん参りに来ている。
仏教というのはインド生まれだが、今やその信者はインドの総人口の1%にも満たない。
インドの宗教史はかなりややこしい。先住民を駆逐したアーリア人が持ち込んだのがバラモン教。今でもカースト制度などその法はインドに深く浸透している。そこから飛び出たのが仏教だ。バラモン教を下地にはしているが、平等を謳ったり苦行を否定したりと当時としては革新的な宗教であった。
仏教はアショーカ王などの庇護により西暦500年位までは一定の地位を保っていたらしいが、やはり盛者必衰という逃れられない宿命を受ける。仏教は教えの解釈などから分裂し、さらに複雑化していくことで民衆から離れたところに向かってしまう(この時に生まれたものの一つがヒンドゥー教と結びついた密教
そこに西方から押し寄せたイスラム教徒たちによって仏教は壊滅させられ、多くの寺院が破壊されることになる。
しかしその教えはスリランカ経由で東南アジアへ渡り(上座部仏教)、中国経由ではるか極東の日本にまで伝わっていく(大乗仏教

 

 

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やる気のないセキュリティーチェックを受けて境内へ。
なんとも言いがたい異様な塔がそこにはある。とても奇抜なデザインだ。

塔の前にあるこの門。これが日本の鳥居のモデルともいわれている。

塔の中は金剛座と呼ばれている。
そこには黄金に輝く仏像が安置されている。
この場こそが、悟りを開いた場所なのだ。

 

 

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レリーフを見ながら塔の後ろの方へ向かうと・・・

 

 

 

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一本の大きくて古い木がある。
実はこれがあの菩提樹だ。
菩提樹の下でお釈迦様は悟りを開いたという話は聞いたことがあるだろう。

 

 

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菩提樹の周りにはたくさんの僧が熱心に読経している。その周りには地元の人や観光客がたくさんいた。
しかし仏教における最高の聖地なのだが、なぜか皆ゆったりモードな人が多い。
階段に腰掛け、ぼーっと菩提樹を眺めている人ばかりだ。
聖地といえども厳しい空気というものはなく、心が安らぐような場所だ。離れたところで座禅を組んでいるお坊さんはがっつり寝ていたりする。それくらい落ち着けるのだ。
これぞ仏教らしい空間なのかもしれない。

 

 

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ちなみにIpad坊さんもいる。

 

 


日本寺

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仏教の聖地というだけあって、ブッダガヤーには世界中の「寺」が建てられている。
中国、タイ、日本、チベット、そしてブータンまで。各国の色が出ていて見ているだけでも楽しい。
そんな中で我らが日本寺はというと・・・質素だ。
このシンプルさの中にある構造的な美をわかってくれる人がインドにどれくらいいるのだろうか?なんてったってタージマハルとか見慣れている国だ。タイ寺やブータン寺のようなド派手さはないので、ややインパクトに欠けるだろう。

 

 

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※こちらはブータン寺。外も中も豪華絢爛。

しかし、ここは日本人にとって心底落ち着く場所である。
この屋根のライン、天井の日本画、柔和な仏像、線香の香り、これこそ日本だ。

 

 

瞑想

日本寺では朝と夕方の5時から座禅体験ができる。
最早、雑念が二足歩行で歩いているといっても過言ではない僕ちゃん。雑念と妄想の狭間でしか生きられない哀れな人間こそ、座禅を組んで腐りかけの精神に活を入れるべきではなかろうか。
ということで座禅体験をやってみた。

若い住職さんがやってきた。すごくフランクで優しそうな人だ。
はじめに20分ほど読経があり、そのあといよいよ座禅タイムとなる。
チーンという音とともに瞑想を始める。足を組んで、少し目を開け、「無」になる。しかし「無」になることはかなり難しいので、呼吸を10まで数えることを繰り返したほうが良いと教わった。

 

1,2,3・・・そういえば住職さんって給料とかもらってんのかな?・・・イカンイカン!

1,2・・・なんか腰がいたいなあ・・・イカンイカン!

1,2,3,4・・・晩飯何食おうかな。明日は移動じゃないからたらふく・・・イカンイカン!

1・・・今。何分くらいかな・・・って全然数えられない!

 

まさかの5まで数えられない。
俺はイクラちゃんか!!
情けなさに思わず泣きそうになっていると、ふと体の感覚がいつもと違う事に気づいた。
なんか宙に浮いているような感覚がするのだ。
すごいではないか!雑念に蝕まれながらも、体の方は解脱しちゃってる勢いだ。

ん?足が動かん・・・


しびれた。

初めての無理な体勢で、足がしびれていることすら気づかなかったのだ。
「足が・・・足が・・・俺の足がない!!」
B級戦争映画のようなセリフを脳内に走らせながら、目視できる自分の足を探すという禅問答のような状況に陥る。このまま終わって立ち上がったらすっ転んでしまう。恥ずかしい。せめて足をゆるめておかねば。
そう思っても足はイクラちゃんみたいに言うことを聞かない。

 

なんとか足を伸ばした瞬間、電気ウナギが這って行くような新感覚に襲われる。
「ぎゃああああ!!!」と口には出せぬが心の中で絶叫する。
き、気持ち悪い。なんじゃこの感触!
周りが瞑想に集中しているさなか、ひとり体をガタガタ揺さぶる姿はもはや新種のヨガである。

 

瞑想タイムは何とか終了。
足は根元の方から少しずつ少しずつ僕の体に返還されていた。
やっと落ち着いた時にボソッと嫁さんに言われた。

 

「・・・集中力ないね」

 

 

 

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日本寺には二日間通った。
住職さんがとてもよい人で、色々と教えてくれた。
日本寺は宗派の関係がなく建てられたものだ。ここの住職は持ち回り制で、いろんな宗派の人が集まるという。日本では絶対ありえないらしい。
任期は2年ほど。仏教の聖地に住めるのだから坊さん冥利に尽きるだろうと思いきや、なかなか実際は厳しいらしい。日本のお坊さんはほとんどの人が寺を持っているので、長期の海外の滞在は難しいからだという。
日本寺は無料の学校も経営している。日中は境内にある公園で子どもたちがワイワイ遊んでいる。日本の旅人や観光客も寺の石段に座ってぼーっとしている。
住職さんはこんな風景が好きだという。これこそ本来の寺の景色なんだとおっしゃった。
たしかに、僕も日本で寺に行くときは観光か墓参りか葬式だけだ。寺でこんなにゆったりすごすことはない。
夕日に染まる日本寺には、子どもたちのはしゃぐ声と住職さんの読経が響いていた。