SIGMAfpとLeicaレンズで撮る質感
SIGMAfpとLeica summicron-R50mmでマニュアル撮影ばかりしている。
今回は質感を舐めるように撮ってみた。
※写真はすべてブログ用にリサイズしています。
最近、蘇鉄の葉ばかり撮っている。
山に行ったらシダ、この工学的な自然の質感がとても良い。
特に前ボケを入れると、蘇鉄のガサガサした質感が立体的になる。
工業製品のような葉、しかし本当は工業製品が真似した自然のデザインでもある。
人間の視覚が捉えるカタチとは、すべて自然にあるものだという。
その無意識の感覚を写真にできたら・・・と思っている。
Leicaレンズのシャープさと滑らかなボケ、しかもリサイズしたらなんだかフィルムっぽい。
高画質な写真はあまり好きではない。むしろ光学的な無軌道の自然の一瞬を写真にするという複雑系のゆるさが楽しいと思う。
SIGMAfpは、オールドレンズでも手軽に肩肘張らずに撮れる。
SIGMAfpは、光学ファインダーではない。しかしオールドレンズを使う適正について考えると、最新レンズに最適化された最近のデジタルカメラはすべて対象外だと思っている。
むしろSIGMAfpは、「フルサイズデジタルカメラでコンパクト=昔のフィルムカメラの大きさ」だと思うので、そこの手に馴染む感覚が良いのだろうと思っている。
そんなことを考えていると、オールドレンズ沼が僕を呼んでいるのだ。
SIGMAfpは終わりの始まりになる危険なカメラだということは、肝に銘じて購入すべき。
植物図鑑的にも撮る。
質感という意味では、中平卓馬のいう植物図鑑的写真はフラットな質感、そこにあるような、でも手で触れることができない距離、そんな写真ではなかろうか?
質感だけを掠め取るのであれば、周辺光量落ちの柔らかいボケが良いと思った。
それが浅いピントと合わさることで、『わたしが見ていたかもしれないもの』のような主観を焼き付けることができる。
あるがままの世界の知覚、それを一枚の瞬間として切り抜く時、そこには質感の表現が必要となる。
それは技術的な撮影方法ではなく、ましてやカメラやレンズのスペックではない、写した本人の主観と光の偶然が生む。
蘇鉄のようなアフォーダンスを感じることから、写真を再定義してみようと思うのであった。
でもやはり感覚の世界であり、安易な言語化ができないもどかしい感じを撮りたいね。