SIGMA fpとLeicaレンズで旅する国東半島と現代写真論(仮)

国東半島写真旅、今回はSIGMA fpとLeicaレンズの旅です。

 

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この記事では写真に絞った内容、カメラ・レンズ沼住人のためのF22くらい絞った現代写真論+旅行記になっていますので、国東半島についての旅行記はこちらをご覧ください。

 


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You Tubeで動画写真集を作っていますのでよろしければどうぞ。

 

 

熊野磨崖仏

日本では珍しい石でできた仏像、熊野磨崖仏

それを撮るのはLeica Summilux-M 35mm f1.4 2nd

故に過剰な開放F1.4でボッケボケにしたくなるのは、人間の業というもの。

曇天、半逆光というオールドレンズには耐え難きを耐えられない環境において、わざわざ何もかもおっぴろげの大開放で撮影された熊野磨崖仏は、我々の煩悩を打ち砕いてくれるのだろうか?

神罰仏罰が当たろうとも、デジタルカメラという人類が生み出した邪悪なエクスマキナにより、シャッタースピードは神域の如く意のままに操ることができ、SIGMA fpというミラーレスなる物欲フルカメラのせいでマウントアダプター遊びが捗る捗る・・・

 

そんな罰当たりな僕ですが、LeicaレンズはF2.8くらいが好きですね。

Leicaのボケってちょっとネッチョリしてませんか?

それでいてピントが合っている部分は、ガチムチのジャーマンシャープなわけです。

F2.8くらいだとあとで腹下しそうな脂ぎったボケ感が薄らいで、写真中央のカリカリベーコンシャープさの範囲が心地よく、それを醸し出すのは絶妙な周辺光量落ち。

Leicaの良さは、このアート感ですよね。

アート、それはシュレッダーで切り刻まれることで価値を生むもの、要するに幻想。

幻想を写し出すレンズ、それがLeicaであり、要するにLeicaを持つものしかわからない、そしてLeicaを知らないものにはどうでも良い、そんな自己満足を具現化した磨崖仏。

 

ちなみにSIGMA 20mm F2 DG DN | Contemporaryでも撮影した。

写真旅のサブレンズは超広角レンズがおすすめだ。

なんせね、何でも写り込んでしまう。

そして超広角だからこそ起こるしっくりこない感。

なんか曲がっちゃうな、なんかのっぺりしたな、なんか、なんか違うな。

写真旅(個人旅行に限る)では有り余るカメラとの対峙時間に置いて、レンズを変えることで世界は変わるという天地創造をカジュアルに楽しむことができる。

レンズを変えて同じ景色を同じ時間に同じカメラで撮ろうとすると、あらびっくり!そこには違う世界が広がっているのだ。

故に、二度三度おいしい。同じ旅行でもパラレルワールドに迷うこむような感覚。

旅レンズのサブは広角レンズが良い。

 

 

富貴寺

平安の雅な時代を体現する富貴寺

どうでしょうか?この優美な細い線は?

いや〜これぞ和の心、OLYMPUS PENみたいですよね〜

とてもゼンザブロニカを生み出した国とは思えない雅なお寺ですね〜

 

フィルム時代のオールドレンズであるからして、最新デジタルカメラに最適であろうはずがない。

だがしかし、その微妙な技術的バタフライエフェクトの隙間を突いた画こそ、情報の海に投げ出された現代人の求める「個性」となる。

だが個性はすぐさま消費され、模倣され、また新たな情報の海の潮に流されていく。

その流行と試行錯誤と裏切りと需要の潮の流れは、我々を数多あるカメラやレンズへ生唾ゴックンさせるのである。

「この写真の空気感、良いよね!」そして僕は気づくのである。

次は8枚玉かな・・・と。

 

そんなLeicaのオールドレンズだが、個人的にグリーンとの相性が良いように思う。

それはSIGMA fpの相性なのかもしれないが、我思う故に「あり」だから良いのだ。

オールドレンズの現代的エモい消費=「個性という名の幻想」とは要するに往時の技術的敗北である。

往時の技術的敗北が現代のデジタルカメラのセンサーと合わさることで、当たるも八卦当たらぬも八卦の「個性という名の幻想」は生み出される。

それでどうですこの緑の階調!白飛びすら全体と調和している。

これぞ幻想的でしょう?

 


両子寺

このダンジョン最深部ラスボス直前の得も言われぬ戦闘の予感、両子寺の仁王像さんです。

オールドレンズといえどLeicaさんですからね、絞れば普通に写ることこの上ないわけで。

なぜ人は開放するのか?それは現代生活の息苦しさからの解放、要するに光学的ヌーディストビーチなのである。

開放のボッケボケの薄いピント面で撮られた写真は、我儘さを我儘に殴りつける超個人的恣意的暴力的な自我の主張。

息苦しい社会の構成部品として飯食ってウンコするだけのくだらない生活、それへのアンチテーゼとしての表現行為、それが開放ボケの恣意性である。

自己を誇示するかのようなボッケボケの写真がSNSでバズり、古参銀塩世代からあれは写真ではないと罵られるそれは、現代社会の縮図でもある。

世界は自由気ままに生きる場所ではないと明確に否定された現代っ子は、ボケたエモい写真で写し出された世界こそ自己の生きるべき本当の世界なのである。

 

では絞る写真とはなにか?

それはエモくないリアリズムな手法でも耐えうる被写体の持つ個性があるからである。

それでしかない。それは現代社会では稀有な存在として、そこにたどり着いた自己の存在へのオマージュとして、そしてHDRにゴリゴリにしなくても良いかなと思わせる程度の「こうであってほしかった世界」なのだ。

現代っ子にとって、カメラとは「こうであってほしかった世界」を撮る機械であり、またはそれに似た/近い素材をデータ量多めで保存するためのバックアップなのである。

 


大不動岩屋

存外な割とハードな登山のあと、たどり着いたのは大不動岩屋。

九州の豪快な奇岩は、さすが火の国、乙事主様の故郷、縄文人がふっ飛ばされた火山パワーの国だと思い知らされる。

こういった風景写真は、大三元レンズで舐めるようにデータ化したいのが世の常人の常。

だが敢えてのマニュアルフォーカスなオールドレンズで撮る。

RAWデータをいじっても、いわゆる絶景写真にはなり難し。

いわゆる絶景写真は、「こうであってほしかった世界」の極めつけである。

HDRゴリゴリの階調もクソもカラーもない完璧な世界は、新海誠の描く景色のようである。

それは「こうであってほしかった世界」が現実にはもうないという絶望の先にある開き直りであり、だからこそ恥も外聞もなくせっせとAIのように画一化された写真が世に溢れる。

 

結局の所、写真は生活の一部に成り果てたわけだ。

化学の知識がなければできなかった特権的な技術の時代から、写ルンですで子供でも撮れるようになり、今やポケットにはいつも高性能なカメラが付いたスマートフォンがある。

カメラは眼の一部となり、そして記憶のバックアップとなった。

SNS時代の到来で、世界はさらに情報化されてしまい、残されるのは新海誠的な「こうであってほしかった世界」である。

恥も外聞もない演出された世界は、唯一残された幻想の世界という名のディストピア。

この絶望感は、HDR化された階調もクソもない完璧な世界であり、ふんわりしたボケと淡い光で満たされた無菌室ポートレートであり、Photoshopの生み出した人工的なこうであってほしかった世界への憧憬なのである。

だからこそ、写真の可能性が多様性を超えた先に待ち受けていたのはGoogle的な中央集権化された需要の創造と誘導であり、そこにカメラメーカーは広告を集中する。

写真とはなにか?それはもう真理のない禅問答であり、世界はただそこに存在するだけとなった。

では何を撮るのか?

 

 

宇佐神宮

Q「カメラが欲しいんです」
A「iPhoneを買え」

 

Q「家族を撮りたいんです」

A「iPhoneを買え」

 

Q「私は何のために生きているんでしょうか?」

A「カメラを買え」

 

現代写真とは、自己承認欲求を我儘に消費できる体験である。

ただ撮影するという行為こそ、現代では失われた不便さの中にある自己との遭遇である。

そしてその写真は自己承認欲求を満たすためのゲルニカであり、社会への復讐としての自己像の侵食の道具でもある。

だからこそ、木村伊兵衛写真賞受賞者は誰も知らないが、SNSの有名人は羨望の眼差しを浴びることができる。

なぜなら自己承認欲求を満たしてくれる社会というのは、ただの談合と迎合であるということが看破されたからだ。

石の上にも三年より、権威主義に迎合するより、SNSで自分を構成する世界線の中だけで評価されたい。

これが現代写真の有用性である。

現代写真とは、痛覚のようなものだ。

いつもそこにあるらしいのだが気にも止めず、だがそれが起こると嫌でも自分が生きていることを思い知らされる。

それは共感を呼び、それは郷愁を感じることもできる。

挑戦すること/自己と向き合うことは痛みを生むが、痛みがなければ前に進めない。

痛みの共有は小さな世界を生み、小さな痛みでも世界は破滅するのである。

iPhoneではそれを身体化することができない。

 

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酒に酔った時にしか書いていません。

 

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