SIGMAfpとLeicaレンズで撮る日常~スーザン・ソンタグとダイアン・アーバス

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Camera : SIGMA fp
Lens :Leica summicron-R50mm

SIGMAfpを手にしてから、Leicaレンズを日常使いするという贅沢を堪能してます。

今回は公園での撮影です。

※写真はブログ用にリサイズしています。

 

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SIGMAfpで撮り始めてから、1ヶ月以上が経ちました。

基本的にマニュアルモード、カラーモード「風景」での撮影。

マニュアルモードでは、液晶モニターで映し出される画像を見て、直感的にダイヤルで調整をしながら撮っている。

カラーモード「風景」は、コントラストが強めなので、summicronのシャープさが際立つ。

まあ技術的なことはこれくらいにしておいて、ここからは撮影の感覚について。

 

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最近は、

SIGMAfp+Leica summicron-R50mm

LeicaR8+Leica summicron-R50mm

LeicaM3+Leica summicron-M50mm

Plaubel makina 67(Nikkor 80mm F2.8)※35mm換算で約40mm

 

このように35mm換算で50mm前後の単焦点レンズしか使っていない。

自分でもびっくりだ。

 

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50mmが標準レンズといわれるのは諸説あるようだが、「人間が見ている景色に近い」とよく言われる。

が、全然違う。

個人的には、50mmの画角はなにかを意識した時の「注意が集まっていく瞬間」に近いと思う。

 

 

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この注意を向ける=意識するというのは、まさに撮影の前段階の「被写体を探す」行為そのものであり、その発見を再度記録するという過程が50mm単焦点レンズなのだと思う。

撮影者は世界を自己意識で切り取るために、世界を「記録するための世界」という我儘な意識で眺めている。

この撮影者の意識の源泉は、純粋な興味であったり、他者に見せつけたいイメージであったり、RAW現像用の素材集めであったり、内面の表面化であったり、金銭や出世欲であったりする。

 

 

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スーザン・ソンタグの「写真論」では、この撮影者の意識について書かれている。

特にダイアン・アーバスの写真についての考察は、撮影者の存在の深淵に手を触れている。

Diane Arbus. Die kleine Monographie

Diane Arbus. Die kleine Monographie

  • 発売日: 2003/11/01
  • メディア: ペーパーバック
 

ダイアン・アーバスといえば、マイノリティを撮影し続けたアメリカの女性写真家。

その被写体は、ソンタグ曰く「嫌悪感を与えるが、哀れで痛ましい人たち」であるが、それを同情的に写すのではなく、「他にも世界があることを示すため」に撮影しているのだ・・・と。

 

 

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ダイアン・アーバスの被写体は、正面を向いて堂々とポーズを撮っている。

マイノリティたちを隠し撮りしたわけではなく、しっかりとコミュニケーションを取り「彼らと向き合って」撮影しているのだ。

ソンタグは、ダイアン・アーバスはマイノリティたちを見る社会の目を「引き受けて」おり、だからこそ世界に乗り出して痛ましい世界を収集していると評した。

 

 

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そしてダイアン・アーバスは自殺した。

人々は、彼女の写真は誠実であり、覗き趣味ではなく、そして彼女にとって危険なものであったと評した。だからこそダイアン・アーバスは神格化された。

しかし、それはダイアン・アーバスの死を説明できておらず、彼女が撮影者として意識したものが何であったかの答えとなっていない。

 

 

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スーザン・ソンタグは、ダイアン・アーバスの写真をこう評している。

アーバスの写真で一番心を乱されるのはその被写体ではさらさらなく、その写真家の意識が累積していく印象、つまり提示されているものはまさに個人的な視線、なにか任意のものという感覚なのである 

 

裕福なユダヤ人家庭で何不自由なく育ったダイアン・アーバスは、「逆境を味わったことがない」というコンプレックスから、カメラを通じて現実感覚を得ようとしたのだ。

 

 

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このソンタグの「撮影者の意識」を読み、僕は「世界をあるがままに知覚した瞬間を表現する」という最近の自分の撮影テーマに何故至ったかがわかるような気がした。

撮影するその瞬間が導き出されたのは、数ある選択肢の中からの選択という無意識の結果であり、それは撮影への探求のスタートでもあるのだ。

フィルムカメラを使ってからというもの、あーでもないこーでもないと写真関連本を読みふけったのも、どうやらこの終わりの始めにたどり着いたからなのだろう。

 

 

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ただ記録していた、ただ無意識の選択に説明付けしていた、そんな撮影期が終わったのだ。

この経路を考えていると、アントニオ・ダマシオの「デカルトの誤り」という本で読んだ「ソマティック・マーカー仮説」を思い出した。

これは身体感覚や感情が、脳の意思決定に影響しているという説だ。

ある経験に対して快不快の身体感覚を呼び起こし、それを感情として表出させることで、物事を選択する意思決定を効率化させているという。

僕が撮影に対して今のように意識し始めたのは、この身体的な不快感が原因のような気がする。

 

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少々こじつけっぽくなるが、こういった感覚的な疑問というのはどこからやってくるのか?

今まで無意識に「正しい」「当たり前」と思っていたことに違和感を感じる、これは意識する前段階の感覚であり、それは「不快」としてしか表現できない。

不快だからこそ、気付く。

そうして選択肢に候補が上がり、意識として行動へ繋がる。

 

 

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これは単なる「飽き」や「マンネリ」かもしれないし、何かしらの情報により影響を受けただけかもしれないが、そういった感覚はいつからか感じるようになり、それが選択される日が来る。

ダイアン・アーバスがマイノリティたちと向き合って撮影をした動機は、この身体感覚の積み重ねのように思うのだ。

彼女のコンプレックスや(ソンタグも知らない)経験が、身体感覚として記憶され、それが写真家の意識として累積されていったのかもしれない。

 

 

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「なぜこの写真を撮るのか?」を考えると、なかなか論理的に説明できない。

そこには感覚的としか言いようがない部分の占める割合が多い。

僕は写真以外のことは順を追って説明しやすいのだが、こと写真に関してはここまで没頭していながらも、「なぜ?」が何故なのか説明できない。

それは無意識の中にしっかりと存在し、それがある原因から感覚となり、意識として脳に感じ取らせ、そしてシャッターを切る。

この無意識と意識の間で浮き沈みする感覚を吐き出さなければ気持ちが悪くなる、それが表現なのではないだろうか?

情報化社会により大量のインプットの処理だけに追われている日々の中で、代謝的なアウトプットはすぐに消費されてしまう。

だからこそ、気持ち悪さに耐えられない人間は、表現行為というアウトプットに走るのだ。

それは便所への駆け込みなのか、それとも?

 

写真論

写真論

 

非常に鋭利で優しい写真論。

 

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