SIGMAfp+Leicaレンズ『自然の中で光を撮る』②~記録と表現について
Camera : SIGMA fp
Lens :Leica summicron-R50mm
前回に続き、ブナの森を撮ってみた。
今回は写真と共に、中平卓馬の記事でも書いた『記録と表現』について考えてみたので徒然なるままに書いてみた。
偶然が生んだ奇跡?
とある撮影方法で思いもしなかった現象が。
レンズは人間の目に似せて作ってはいるが、やはりこういう偶発的な驚きがあるからカメラは楽しい。
カメラとは情報を視覚的に記録するための機械であるが、数ある機械の中で最も人間の能力にそのまま近づけることを是として技術発展していったように思う。
車のように人間の能力を延長した機械、要するに視覚から得た情報と延長した身体イメージをリンクさせることで操作するものと違い、カメラはより人間に近いと思うのだ。
発明された当初はとにかく人間の目に写るように記録する、それだけを追い求めていた。
それは技術が進歩することで手軽で感覚的になり、現在ではほとんど自動で情報が記録される。
子どもから老人までカメラは受容されており、うちの子どもは4歳だが1歳当時の自分の写真を見て「自分」として認識しながら喜んで眺めている。
人間は本能的に情報が好きなのだ。情報はあればあるほど生存率を高める作用を持つ。
だからこそ、現代人の生活には多種多様な機械があるが、カメラが一番人間に近いものだと思う。
眼鏡や補聴器や義肢のような身体能力を補うものに近い存在なのだ。
でなければ、そもそも今のように普及していないだろう。
生活家電のように労働をより簡易で安全で便利にするものでもなく、車や飛行機のように身体イメージすら乗り越えるものでもない。
DNAに刻まれた情報を求める強い欲求、それが記録でありカメラなのだ。
単純な記録としてのカメラの有効性は、人類にここまで普及した。
それだけでなく、表現という心理面でも写真は重要なのである。
表現行為は踊りや歌や絵画のように多様に存在するが、最も生活に近いのはカメラだろう。
なんせiPhoneなら子どもでも写真は簡単に撮れるのだ。
表現行為とは、芸術ではなく無意識的な自己表現のことをいう。
単なる記録のためであれば、記念写真のように着飾って硬いポーズで写真を時系列に撮れば良い。
しかしSNSに溢れる写真を見ればわかるであろうが、そこには自己イメージの強化のための記録ばかりだ。
これはアイデンティティの明確な土台が崩れ去った現代において、個人は自己イメージを自分で演出しなければならなくなったからだ。
もちろんSNSに写真をアップロードせず、写真コンテストに応募したり自宅で飾るだけの人もいるだろう。
だがそれも自己イメージの強化なのだと思う。
そうでなければ、なぜ写真を撮るのだろうか?
この表現について、写真の歴史は大いに議論を重ねてきた。
日本でいえば、戦中にプロパガンダとして利用された写真を復権するために、リアリズムなる報道写真のような記録に偏った写真が求められた。
それを奈良原一高、東松照明、中平卓馬、森山大道のような写真家が破壊していき、個人の主観を表現した写真が受容される。
しかしその主観写真すら否定され、広告メディアとなったり、私小説のようになったり、コンポラ写真になったり・・・と、どんどん創造(改定?)と破壊を繰り返してきたという歴史がある。
こうしてみると、表現とは時代性を持っているのだ。
時代に求められている表現が、大衆に受け入れられる。
その表現者は時代の寵児となるも、すぐに体制側となり消費されていく。
こうしてみると、表現=自己イメージの強化というのがわかりやすいだろう。
表現とは社会と時代に埋もれいく個性の暴発であり、だからこそ生と死が同居しているのだ。
写真だけではなく、すべての表現行為はこの生と死を纏っている。
時代の流行に乗らない写真を撮っているという自負がある人でも、完全に自己満足のためだけに写真を撮っている人は皆無だろう。
インターネットが世界中を覆う現代において、ヴィヴィアン・マイヤーは存在しない。
また10万枚以上の写真を撮りながら誰にも見せなかったというヴィヴィアン・マイヤーですら、膨大なネガを倉庫を借りてまで保持し続け、時間を見つけてはせっせと写真を撮り続けていたのだ。
表現は行為であり、だからこそそこには意味がある。
その意味の根底には、自己イメージの強化があり、それを掘り下げると「自己保存」という動物的な畏れがあるように思う。
記録だけでなく、表現の中にある自己の記録も他者に認めてもらいたい。そして永久的に自己の存在という記録を残したい。
ヴィヴィアン・マイヤーの強迫的な記録魔としての表現、中平卓馬の狂信的な記録と表現の探求、一ノ瀬泰造の戦場写真、ダグ・リカードのGoogle Mapの写真・・・などなど、すべて自己保存としての行為なのだと思う。
生命を守るために、自らの存在感を高めようとするのだ。
そのためには他者が必要であり、共感とは時代なのである。
森山大道やアレック・ソスがもし10年早く生まれていたら、きっと歴史は変わっていただろう。
表現は自己と他者があり、なおかつ時代とともにあるのだ。