SIGMAfp+Leicaレンズ『自然の中で光を撮る』③~なぜそれを撮るのか?

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Camera : SIGMA fp
Lens :Leica summicron-R50mm

引き続き、ブナの森を撮ってみた。

 

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写真とは見る行為の展開であると思う。

「ただ見る、情報処理として」

それが本来の人間の見るという行為なのだが、写真技術の登場で情報処理の過程を再度確認できるようになった。

よって「見る」ことと「見たい」ことが分離されたわけだ。

そういう意味で、僕の「見たい」ものはこのブナの巨木なのであった。

 

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圧倒的な自然の造形、ブナの巨木。

橅と書くように用材として利用しにくいからこそ大木が残されているという人間との関係が、まさに美しいと思うのだ。

皮肉にも石油エネルギーで自然界のパワーバランスをひっくり返したために、最後に残された自然の自負であるブナは破壊されることになったのだが、これはその残骸である。人間側から見て。

保護されなくては自然は存在できないのだから。

 

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ではこのブナを「見たい」と思うのはなぜか?

わざわざ複製までしてこの瞬間を所有物にまで落とし込みたいのか?

そして「ただこの場に行って見ることができれば良い」という観光的体験としての結果で落ち着けないのはなぜか?

 

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そこにはカメラがある。

カメラがあることによって、僕はこの場に行き、その瞬間をせっせと複製している。

この動機というのが、「見たい」であり、それを所有したいからであり、その所有とは内外問わず自分を構成しているひとつのモノとして欲しているからだ。

自分に足らない、ではなく本来あるべきモノとしてこのブナの大木を所有したいのである。

 

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前回の記事写真を撮るということは自己イメージの強化であり突き詰めると自己保存という動物的な畏れがあると書いた。

大量消費社会は、その本質的な記録と表現行為をまさに消費させるだけに堕落させた。

根源的な動機を金に変えるわけだ。

SNSはまさにそうで、自己イメージの強化が広告と強固に結びついているのは誰しもが納得できるだろう。

 

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僕が車で1時間も走って山奥でブナを撮るのは、主流な消費行為ではない。

そもそも、「主流な消費行為」が「社会の主流」となっているのは異常だと思うけど。

僕がブナを撮るのは、まさに自己イメージの強化であり、反消費的な活動であると思う。

これは職場の同僚と話して思ったことだが、要するに「僕は反主流派である」ということこそが自己イメージの強化剤なのだ。

 

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この畏れの二段活用こそ、このブナを見たいと思わせる動機であり、これを複製して自己イメージの強化に役立てようとする僕の行動の原因なのである。

人間は自然適応能力が高いといわれるが、社会適応能力こそが今求められる人間性であり、そこには畏れを隠蔽しながら自らを確信的に社会にあるものとして生きなければならない。

 

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自己イメージの強化は、その歪な自己像の修正であり、正解はない。

なぜなら社会により歪められた自己像という被害妄想がどれだけ自分に影響しているかというのをどれだけ感じているかによりその手法は違うのであり、そもそも社会に対して悪意すら持ってはいけないという適応こそが現代人を造り上げているのだから。

 

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このブナと僕との関係はそれ以上でも以下でもなく、ブナでなければならず、僕がカメラを持っていることが前提であり、だからこそ貴重な有給をとって平日の無人の山奥でああでもないこうでもないとカメラを捏ねくり回しているのだ。

これは現実逃避なのか?そうではなく、また写真撮影でなくても良い。資本主義だろうが、共産主義だろうが、石器時代だろうが、人間とはこういう不可解な遊戯を楽しめる生き物であり、それが社会的動物といわれる所以であり、カメラが生まれた原因でもあるのだから。

 

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SIGMAfp+Leicaレンズで自然を撮ると題してお送りしてきたが、ここでやっと?カメラとレンズについてのまとめを書いてみよう!

まずSIGMAfp、とにかく軽い軽快ノンストレス!

そして直感的な操作でマニュアル撮影が感覚的に行える。フィルムカメラ的な使い方ができるので、「光」に集中することができる。

なぜなら軽いからだ。軽いからこそ、マニュアルモードでのダイヤル操作における「ああでもないこうでもない」が当たり前に行える。

これはフィルムカメラを使ったことがある人間にしかわからないであろうが、撮れすぎるデジタルカメラではこの作業はストレスでしかない。

過剰サービスによって撮影者のエゴを刈り取るのがスペック主義の最新カメラであり、SIGMAfpはエゴを静観してくれる、そんなカメラだ。

軽く、最低限の機能、それを撮影者に委ねる、これがSIGMAfpである。

 

そしてLeicaのレンズ。

前回、前々回と違い、今回はブナの大木を写りとるために絞って撮った。

「光」を点で追うには開放に、そして僕がじっくりと堪能している景色は絞って撮っている。

ブナの体表こそ自然の造形美であり、人間の挑戦を受け付けない感覚的なアルゴリズムの差異である。

summicronはフィルムカメラで撮ったときに立体感の描写が尋常ではないと思っていたが、SIGMAfpでも驚かされた。

奥行きの表現は以前使っていたNikonのレンズとは、「思想」が違う。

日本製のレンズは「情報量を適正かつ高画質に落とし込む」ための記録主体設計。

Leicaのレンズが「撮りたいものを明確に撮るためだけ」の表現主体設計。

Leicaのレンズは記録写真としては情報処理の癖が強い。周辺光量落ちやボケの滲みなどがそうだ。もちろん記録撮影として使えないという意味ではなく、報道写真や本の複写のような合理的配慮が必要な被写体においては優等生な日本製レンズが良い。

 

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Leicaレンズはこういう写真が撮りたい人向け、もしくはこういう写真が撮りたいと思わせてくれるレンズ。

「何を撮りたいのか」が明確であればあるほどLeicaレンズはそれに答えてくれるのだと思う。

 

フィルムカメラを使うことで「写真とはなにか」を考えるようになり、Leicaレンズを使うことで「自分は何が撮りたいのか」を探求するようになり、その結論としてSIGMAfpが手元にある。

 

 

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以上、SIGMAfp+Leicaレンズ『自然の中で光を撮る』でした。

 

 

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