SIGMAfpとLeicaレンズで撮るモノクロスナップ~写真の時間的価値について~
Camera : SIGMA fp
Lens :Leica summicron-R50mm
スナップ、それは何もないところに物語を無理やり作る行為。
写真を学ぶ上で、絵画の知識が必要だと痛感したのはつい最近。
結局、写真の『表現』については、先輩格でありより複雑な絵画の歴史が手助けになる。
なんせ絵画は無地のキャンパスに0から表現することになる。
その技法の歴史や文化の違いによる表現方法の差異を学ぶことで、写真という0ではない1からのスタートという媒体を探求できるんじゃないか?と。
写真の発明は、記録という役割を絵画から奪い取った。
それに対して、一部の画家の皆様は喜んだわけだ。
「これで好きな表現だけに集中できるぜ!」
絵画も写真も「記録」と「表現」の2つの役割がある。
なぜ人物画やポートレートがあるのかを考えれば良い。
芸術作品は食えないのだ。
そこで絵画にはパトロンが必要なわけであり、写真屋さんはスタジオで記念写真を撮る。
だが技術の進歩で絵画も写真も軽量な道具で手軽に行動できるようになると、人々は世界へ飛び出したのだ。
そこで表現が躍り出る。
大衆化によりトライ・アンド・エラーが繰り返され、大衆化により一歩抜きん出なければならない事情が生まれた。
印象派はそんな時代の波の中で生まれる。
印象派はそれまでのアカデミー的なお約束を発展的破壊工作により爆破し、表現にパラメーターを全振りしたのである。
一見稚拙なゴッホの絵に人々が圧倒されるのも、表現という内省的な世界の表現だからこそ共感が生まれたからだ。
写実的な作品は技巧に驚かされるが、ゴッホやピカソの作品を見た時とは違う「おとなしい反応」となってしまう。
写真はというと、絵画の破壊と創造の歴史を踏襲しつつ、その中でまた破壊と創造を繰り返している。
写真はまずそこにあるものを撮る。撮ればそのまま写る。だからこそ記録としての利便性は絵画を圧倒している。
写真の表現は、その「ある」を「あった」とした後であるという確認を要する。
無意識的に写真はそこにまずあったということが絶対に否定できないのだ。
だからこそ、絵画のような無から生まれた一点物という世俗的な価値には劣る。
しかし皮肉なことに、長い絵画の歴史により人間の脳に刻み込まれた美的感覚は絶対的な価値観として君臨している。
そこで絵画的技巧を再現する写真というのも一興だが、写真にしかできない表現を追い求めると、それは『スナップ』ではなかろうか?
ブレッソンの決定的瞬間こそ、写真の表現の極致なのだ。
決定的瞬間をリアリズム的に記録することは、まさにその瞬間があった、しかもバタフライ効果並みの複雑系の景色の一瞬を切り取った、「あった」の一枚。
この時間の価値というのは、人類が共感できる最も概念的な感覚の一つである。
スナップは、その一瞬にごまかしきれない偶然すらも支配したという人間の偉業であり、再生産ができないという機会の一点物なのだ。
この時間的な価値は、絵画で全く同じものを描いたとしてもたどり着けないだろう。
スナップは写真の記録という役割をこれでもかと魅せつけながら、それでいて表現の範疇に押しとどまっているのだ。
なのでスナップには人物が必要不可欠である。
今回の僕の写真は景色だけであるが、スナップで評価されるのは都市であり人物なのだ。
都市の蠢く人間を制圧した瞬間としてのスナップ写真こそ、人々に強い共感を与えるのである。
だが僕は景色のスナップが好きだ。
正直、スナップと言えるのかどうかはわからないが、車や徒歩で移動しながら気に入ったところを撮る。
特にテーマはなく、そこに「ある」ものを撮るのだ。
その中で気にかかるのは構図だ。
僕の好きな写真というのは構図がしっくり来る写真である。
その瞬間をしっくり来る構図で撮る。そこには単純な黄金比ではなく、光や時間や撮影時の感情まで含めた広義の構図。
その瞬間の自らの感覚を表現する少しゆったりとしたスナップ。
スナップには時間と主観という天秤があるように思う。
「時間」は決定的瞬間であり記録的な価値に重きを成し、「主観」はその奇跡的な瞬間を選択した自分の感覚に価値がある。
ということで今回はモノクロスナップでした。
僕はスナップの場合はモノクロが好き。
何でだろうと思っていたけど、今回の記事を書いていて思ったのは「スナップの時間的な表現に色は不要」(※個人的に)なのだ。
時間的な価値を踏まえると、色は少々脂っこい気がするからかな。
写真と時間の関係も考えていきたいと思うのであった。
写真を撮る人にもおすすめな本。