SIGMAfpと「スーザン・ソンタグの写真論」と「流行の写真表現」

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Camera : SIGMA fp
Lens :Leica summicron-R50mm

 

写真の偶然性は、ものみな滅びるということを確証しており、写真の証拠の任意性は、現実とは根本的に分類できないものだということを指摘している。

現実が偶然の断片の組み合わせに要約される。これは世界を扱うのにこの上なく魅力的で、痛烈に縮小してしまう方法である。

スーザン・ソンタグの『写真論』より

 

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スーザン・ソンタグは人間の記憶自体が、写真の登場によって変化したと説いている。

 

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さらに現代は、写真で記憶する行為自体が、現実=自然への対峙としての立場となっているように思う。

あらゆる情報が手軽に記憶でき、インターネットという情報世界で酸素のように消費されている。

そこには大切な記念写真もあれば、暇つぶしの写真、そこにいたという証拠写真、こうありたいという写真、超個人的な嗜好写真、広告写真、それが乱雑に大量に存在している。

 

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それが当たり前の現代において、写真という記録方法は単なる記録ですらなくなっている。

写真の登場と大衆化により「記録するために」という行動原理が生まれたのだ。

観光地や珍しい何かを撮りに行くために、人は行動するようになったのだ。

 

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現代ではそれに「共有」したいという欲求が加わり、写真や動画での情報量が桁違いに溢れるようになった。

それは人間の欲望を利用した商売であり、だからこそそれだけの情報量が陳列できる場が用意されている。

 

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そうなると、膨大な情報の海の中の一枚の写真は具体的な情報を含んではいるものの、誰もその中までは気にしなくなる。

なぜなら次から次へと同じような情報が押し寄せるからだ。

「偶然の断片の組み合わせに要約されることで、世界が魅力的にかつ縮小される」と言ったスーザン・ソンタグだが、もはやその壁すら情報の波は打ち砕いた。

 

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情報は世界の断片ですらなくなり、情報の断片の断片となってしまったのだ。

「世界を内包した情報=偶然の断片」が情報の断片の断片にまで細分化された。

原子レベルまで情報量が削ぎ落とされた写真は、もはや従来の写真ではない。

もちろん写真と情報の関係は一切変わっていない。圧倒的な物理的情報量により、写真の概念すら凌駕したのだ。

 

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だからなのか、逆説的にインターネットの世界では似たような写真で溢れている。

皮肉にも人間がビックデータから学んだわけだ。

写真は情報であり共有することに価値があり、だからこそ記録する。

これが現代の写真なのだ。

 

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膨大な写真の見えるビックデータでは、共有価値が無ければ無意味なのである。

共有価値を上げるには、手っ取り早く感情に訴えかけるものが良い。共感性のある写真だ。

それが写真の見えるビックデータ内で、空間的シェアを奪い合い争っている。

だからこそ、共感できる共有価値の高い写真=流行になり、世界は同じ色で塗りつぶされる。

 

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写真が端的に経済原理によって増加したことにより、皮肉にも同質的な写真が爆発的に増殖せざるを得ない集団心理を生んだ。

その増殖率は、写真データ総量の増加率を超える速さで増えている。

要するに価値のない写真は淘汰され、そして大量消費されているのだ。

写真は経済的動物として生まれ変わった。

 

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写真は経済的動物としての、種としての繁栄のために煩雑な多様性を棄て、経済合理化したのである。

その結果が陳腐化なのか、それともさらなる飛躍を生むのかはわからない。

だが、これは人間という種と同じ道をたどっているように思う。

 

 

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人間は多様化と自然淘汰を官僚的に調整し、経済原理によって種を統制する道を選んだ。

そのおかげで70億もの人口を抱え、地球の主に躍り上がった。

その挙げ句の果てが、先進国の少子高齢化である。単純に人間は増えすぎたのか?それともこれすら経済原理によって突き動かされているのだろうか?

この「挙げ句の果て」は簡単な二元論では言い表せないだろう。

 

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結論、写真も人間化したのだ。

人間はパンダにはなれない。人間とパンダのどちらが幸せかというのは非常に乱暴な分類分けだが、中国の山奥でひたすら笹を食い続けるパンダにはもうなれない。

写真はたくさんのパンダがいたが、自然淘汰されて人間化した。

同質的な写真は批判すべき対象ではない。僕はその誕生の瞬間が知りたいのである。

 

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過去においては、現実に対する不満は別世界への憧れという形で表現された。

近代社会では、現実に対する不満はこの世界を複製したいという憧れによって旺盛に、また憑かれたように表現されるのである。

まるで現実をオブジェの形で、ー写真の位置からー眺めることによってしか、それは真に現実的、つまり超現実的ではないかのようである。

 

写真論

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