『なぜ、植物図鑑か』を読んで写真表現について考える

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前置きがクソ長くなったので別記事にしましたが、要するに『なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)』を買ったわけです。

予想通り、これにずいぶんヤラれまして、前置きの文章を中平卓馬調にしてみましたが如何だったでしょうか?

中平卓馬のことは知っていました。森山大道とプロヴォークを作った人というくらいでしたが。

僕は新しい分野の知的欲求が湧くと、その構造的な本質に迫る本を買うというのを繰り返して生きてきたわけですが、写真の本質とは芸術畑に近く、芸術畑は哲学畑寄りの危険な知的遊園地なのは承知していました。

ということで、この本を手にとったわけです。だいたい危険な知的遊園地で遊ぶ時は、1968年前後の著作がベストだというのは経験上知っています。

ではここからは、『なぜ植物図鑑か』を要約・解説し、さらに現代写真とSNSの関係などを語っていきたいと思います。

それでは、中平卓馬の植物図鑑という名の魔境へ没入しに行きましょう!

 

 

なぜ、中平卓馬か

1938年、東京生まれ、東京外国語大学卒業後に編集者となり、紆余曲折の末、写真家となる。

1970年発表の写真集『来たるべき言葉のために』までは森山大道とともに「アレ、ブレ、ボケ(荒い画面、手ブレや被写体ブレ、ピント外れの意)」の作風で知られたが、1973年発表の『なぜ、植物図鑑か』では一転して「アレ、ブレ、ボケ」の作風を否定し、撮り手の情緒を排したカタログ写真や図鑑の写真のような写真を目指した Wikipediaより

これだけ読んでもらえばわかると思うのだが、かなり濃い思想の持ち主だ。

 

森山大道らと共に、写真同人誌プロヴォークで当時の写真界、いやアート界を全否定してぶっ壊した挙げ句、そのすべてをさらに否定するという現代人にはなかなかできないことを平然とやってのけた。

しかしそのためか、写真と離れ、急性アルコール中毒により昏睡し、記憶と言語に障害を持つ。

だがそこからまた写真に戻り、2015年に亡くなるまで写真という哲学の世界でアナーキーに生きたのである。

そんな中平卓馬の写真論が『なぜ、植物図鑑か』であり、プロヴォークを否定し、新しい表現(ではない何か)を求めて宣言したのがこの本である。

僕が興味を持ったのは、その偉業と生き方、そして変節を繰り返した写真への哲学だ。変節というのは、現代から見ても、そしてあの時代にはまず否定的な見方が大勢を占めている。

だが中平卓馬は、常に写真が何たるかを洞察し、変節と見られようが己の信念を持って作品を手掛け、そして病に倒れた。

このパンクでアナーキーな生き様に、写真の魔力を嗅ぎ取ることが容易にできる。

そしてその思想の決定的瞬間こそ、この本なのである。 

 

なぜ「なぜ、植物図鑑か」なのか

非常に難解な本なので、僕なりに噛み砕いてみたが、筋っぽくて飲み込めないくらいだった。

まず当時の左寄り、いやアナーキズムに真っ黒に浸っている知識人の言説というものは、大概このような文体になるのが運命であるが、とにかく読みづらい。

構造主義や記号論やマルクス主義的な専門用語の隙間に写真論が書かれているような文体なので、現代の我々が読むと坂道ダッシュをしたあとに粉薬を飲まされるような思いだ。

ともかく非常に難解なのだが、写真を本気で考えたことがある人なら確実に光を得ることは確かだ。

 

イメージとは

まず中平は、当時の写真だけではなく、芸術全般の問題点を論う。

それはイメージについてだ。

イメージとは、

芸術=イメージ「芸術作品に当然のように期待されているもの」

イメージ=(作家に先験的に備わる)作家たる個が持つ世界についての像

芸術作品にはまずイメージがあり、その作家の持つイメージが評価されている。

これはルネッサンスに始まる個の認識から近代まで当然のように信じ込まれているものだ。

作家は自己が持つ純粋なイメージに従って世界を見、世界に触れることが要求されていた。

 

ここに書いてあることは今でも納得できる。

個性の時代なんていわれるが、芸術作品=作家の個性であり、だからこそ「センスがある」「天才!」なんて言われる。

我々は作家の個性=先天的かつ努力によって培った能力を評価するよう教育されてきたし、お偉方に評価された芸術家=一般人より秀でた個性がある人という認識だ。

 

しかし中平は、このイメージ=『人間による世界の歪曲、世界の人間化』であるとし、そして今(1970年前後)世界は人間化・道具化に叛乱しているという。

世界の人間化・道具化とは、「世界は私的欲望の向けられる対象・征服されるべきものとしてある=観念・理性をあるがままの世界に優先する近代ヒューマニズムの精神」ということだ。

よって、

近代の芸術とは、要するに作家と呼ばれる個人に投影された世界の像、いやそうではなく反対に、作家があらかじめもつ、世界はこうであるという像の世界への逆投影であった。それがイメージと呼ばれるものの正体である。

ということは、

作家個人の持つ像が全てに優先され、それを見る多数者の持つ同様な像に合致させることが全てであり、既成の図式や既成の観念を裏切らずに、それに照準を合わせて解説することが表現行為であった

と述べる。

 

難しく書いているが、僕なりの理解をインパール作戦並みに大胆に噛み砕くと、「作家が時代の世相にウケそうなモノを狙って表現することが芸術になっている」という意味だと思う。※時代にウケるモノを偶然作ったのが芸術ともいえる

これは、「世界はこうあるべきだ!」という世界を操作できると思い上がった人間中心思想である。

なので、表現者が持っている像が全てであり、鑑賞者はその像がどんなものかを詮索して理解すればよい・・・となる。

これが従来のイメージ=芸術であると中平は評価した。

 

中平はこのイメージ=芸術は崩壊すると言い、

世界は常に私のイメージの向こう側に、世界は世界として立ち現れる、その無限の出会いのプロセスが従来のわれわれの芸術行為にとって代わらなければならないだろう。

世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること、その分水嶺を今度という今度は絶対的に仕切っていくこと、それがわれわれの芸術的試みになるだろう。それはある意味では、世界に対して人間の敗北を認めることである。

これ、かなりヤバいですよね。

今までの芸術を全否定し、あるがままの世界を受け入れることが芸術であるという定義の革命を謳ってる。

中平は『具体的現実に即して思考すること』が目指すべきたった一つの方向であると述べている。

表現(写真表現)とは、『事物の思考、事物の視線を組織化すること』により、イメージの象徴ではなく既知の世界、そのさらに向こう側に拡がる未知の世界が偶然にも発してくる象徴を受けとろうと待ち構えることである。

写真表現=事物の思考と私の思考の共同作業によって初めて構成されるもの。

これが中平のイメージ論であり、写真表現への答えだった。

 

世界

このイメージを破壊するには、世界、事物の擬人化、世界への人間の投影を徹底して排除せねばならないと中平はいう。

これは現代社会批判であり、当時よりさらに情報過多となったわれわれの生活が、より世界を歪めていると捉えられよう。

世界を人間の尺度だけで見るという思考は、科学主義によって侵された状態であると僕も思う。何でもかんでも説明しようとせずに、客観的に捉える。これってなかなか難しい。そして勝手に科学と宮崎駿が両極端かなとも思う(笑)

中平は世界を『私の視線と事物の視線が織りなす磁気を帯びた場所』と定義する。

 

自己批判

時代を斡旋したプロヴォークを作った中平であるが、その輝かしい偉業を否定する。

それはなぜか?

「結局私自身、彼らの一亜種に成り下がることを意味した」と自己批判したのは、自らの写真が前述の世界を歪曲するイメージであったというのだ。

アレ・ブレ・ボケといわれる前衛的な作風は、「操作可能なモノクローム」で「ウィリアム・クラインのような世界」で「事物があるがままの白昼ではなく夜を選んだ」ため、事物を確認する以前に見ることをあきらめた写真であると辛辣に否定した。

 

これは写真同人誌プロヴォークのことを言っている。

「思想のための挑発的資料」として銘打って売り出されたこの同人誌は、わずか3号で終わったものの、日本だけでなく世界にも影響を与えた伝説の写真同人誌。

原著は数十万円もするプレミア中古価格となっている。

僕のような俗物であれば、一発当てて名声を得たんだから、死ぬまでアレ・ブレ・ボケで稼ぎまくって、ワイドショーのコメンテーターみたいにふんぞり返って当たり障りない無責任なことを放言してさらに稼ぎまくってやろうなんて思ってしまうが、中平卓馬は違った。

プロヴォークで見られた革命的な写真表現は、それまでの写真が世界を安易なステロタイプに図式してみせていただけであり、それを否定するための写真であった。

結局それは、旧態の写真表現の亜種でしかなかった。このアレ・ブレ・ボケはセンセーショナルに受け止められ、そのコピーが乱立していく。

中平が望んだ新しい表現は、結局自らが否定していたイメージの自己投影であり、だからこそ複製され消費されていっただけであったのだ。

 

 

なぜ、カメラか

このように全てにおいて批判的な中平卓馬であるが、ではなぜカメラを手に取るのか?

彼のイメージ論を聞いていると、「そもそも表現自体良くないと言っているのでは?」とも感じてしまう。

そこで中平は、カメラについて語る。

カメラとは、空間を切り取り、所有し、そして主体と客体の二元論という近代のロジックを背負っている技術であり制度である。

だからこそ、カメラは世界と私という二元的対立を包み込んだ場として世界の構造を明らかにすることが可能なのだという。

それは、

一枚の写真の空間に限定するのではなく、時間と場所に媒介された無数の写真を考える時、一枚一枚の写真のもつパースペクティブは次第にその意味を薄められてゆくのではないか。

という考えからであった。

※パースペクティブ=(物事に対する)見方、態度、視点

 

僕の理解だと、カメラは写真という記録を無数に複製することにより、断定的な二元論がすべてであった近代の世界を破壊することができるということだと思う。

先程のイメージ論で述べた通り、個人の「世界はこうあるべき」を捨て、ありのままの世界を記録していけば、近代的な価値観から抜け出した世界を表現できるのではないかと思ったのではないだろうか。

無数の「ありのままの世界を写した写真」は、一枚一枚のパースペクティブを乗り越え、無化することができる・・・と。

 

そしてこのパースペクティブの破壊は、実際に起きているという。

それは近代社会によって、個の解体が始まったからだ。

商品と情報がマスメディアにより大量に流されたために、それに対応する「中心」が無くなった。

情報の氾濫により、自分の意志で判断することができなくなったという意味だろう。

しかし旧来の芸術は、「世界はこうあるべき」という個人の押し売りのままだ。「中心」、パースペクティブが崩壊した現代において、「世界はこうあるべき」はすでに死んでいる。旧来の人間中心主義の芸術は、ただそうなった世界を指摘に嘆いているだけに過ぎない。

だから中平は、人間の特権意識を捨て、絶望的に敗北を認め、そして時代の徴候を露わにしていく作業が残されているのだという。

 

結論「なぜ、植物図鑑か」

(本人も右往左往したと認めているが)やっと結論。

イメージを捨て、あるがままの世界に向き合うこと、事物を事物として、また私を私としてこの世界内に正当に位置づけることこそわれわれの、この時代の、表現でなければならない。

そのためには私による世界の人間化、情緒化を排斥せよ!というのが結論だ。

 

そしてそれがなぜ「植物図鑑」なのか?

図鑑とは、「直接的に当の対象を明快に指示することを最大の機能としている」からだ。

 

悲しそうな猫の図鑑というものは存在しない。

 

図鑑はあらゆるものの羅列、並置であり、特権的な中心はない。

 

つまり、そこにある部分は全体に浸透された部分ではなく、部分は常に部分にとどまり、その向こう側にはなにもない。

 

個が解体された時代、芸術家は個性を売り出すか、それとも個の解体をさらに解体していくかの二通りに別れた。

前者は個性を売りにするが、それは商品=消費へと変わっていく。中平のイメージ論の通りだとすれば、個性を売ることは世界を歪めることであり、なおかつそれを認めてもらうには大衆が思う「世界はこうあるべき」に近づかなければならない。

そうなると、個性とは時代に合わせることなのだ。

 

後者は個・世界が解体されていくからこそ、さらに解体を進めていき、あるがままの世界を表現しようとした。アンディ・ウォーホルがなんでもない缶詰をずらっと並べてみたり、ベッヒャー夫妻がありふれた給水塔を無機質に撮り続けたことも「解体」なのではなかろうか?

 

写真表現を破壊しようとしたプロヴォークは、結局中平卓馬が言う通り「前者」であった。アレ・ブレ・ボケはすぐさま「個性的」という商品となり消費されていく。これが一亜種という意味だ。

それを表すように、プロヴォーク後、森山大道はスランプに陥り、中平卓馬は本書を書き作風を「植物図鑑」のように転向させていく。

 

だが、「じゃない写真:現代アート化する写真表現」でも書かれている通り、この「解体」は最終的には写真表現の否定になってしまう。

写真が発明されて「記録」という仕事を奪われた絵画は、中平の理想のようにどんどん解体していき抽象画になっていく。そして個性を排除しようとし過ぎて何も書けなくなってしまったのだ(ただ色を塗っただけの1ピクセルの絵まであった)

結局、写真も同じ道を歩む。写真はいくら個性を排除しようとしても、ファインダーを見てシャッターボタンを押している。ファインダーを見なくても、その場を選んだという個の意識がある。

最終的には写真が撮れなくなってしまうというジレンマに陥る。

 

さらに絵画や写真で昨今ものすごい金額がつくものはこの解体された表現なのだ。 

70年代以降のポストモダン思想の流行により、現代を否定し、大量消費社会へのアンチテーゼとして存在した「解体した芸術」が「時代に合った流行」となり高価な値段で取引されるという、プロヴォークと同じような末路に至っている。

史上最高額で落札されたアンドレアス・グルスキーの写真は4億円、ただ何もない川が写されている巨大な写真だ。

 

しかし中平の写真論が予言めいていたのはたしかだ。

中平の個の世界の否定は、ポストモダンとその崩壊へ至る歴史を先読みしている。

そして中平自身も本書で描いていたような苦悩を抱え、急性アルコール中毒で記憶と言語に障害を抱えてしまう。

 

 

「なぜ、植物図鑑か」と現代の写真表現とSNS

本書から学べるものとは何か?

中平のイメージ論、写真論が全て正であるとは思えない。

しかし写真についての深い洞察の過程を書いている、そのことが新しい写真表現についての思考を教えてくれている。

ただ何となく写真を撮っていたが、中平のような深い内省との照らし合わせという辛い作業もあるのだ。

では昨今の写真はどうであろうか?

まさに中平が否定した個性の写真「世界はこうあるべき」というイメージであると思う。

だがそこには、「解体した世界はこうあるべき」という新しい表現があると思うのだ

 

最近流行っている写真は、

①「絶景写真」+「RAW現像によるHDR化した世界」

②「どこでもない風景」+「RAW現像による淡いノスタルジックな世界」

そしてこのRAW現像に対するアンチテーゼとして、

③フィルム写真への回帰

 

以上の3点が、アマチュア写真の現代の潮流であると思う。プロの方はもう現代アート化しており、表現末期の状態であると思う。

 

①は、HDR化することでパリパリにカリカリに視覚化された絶景写真だ。

山や湖や滝のような大自然もあれば、ビル群や工場といった都市の写真もある。

HDR化することで、今まで表現できなかった情報量を詰め込むことができ、シャドウが消え去った不自然な解像度を持つギラギラした写真ができる。

これはデジタルカメラの高画素化のおかげでもあるだろう。

 

②は、何気ない景色を淡く、そして全体的に「ほんのり青っぽく」「ほんのり黄色っぽく」といった色付けがされている。

これは、細田守や新海誠の影響が強いと思っている。

「サマーウォーズ」「君の名は」の背景のような世界観だ。普段の生活で何気なく見過ごされてきた景色を、ギュッと圧縮して淡く色付けすることでノスタルジックな画にしている。ポカリのCMの世界だ。

 

③は、流行とまでは行かず、反消費的消費という自己矛盾を抱えた消費活動であり、かくいう僕がハマっている沼。

RAW現像による表現創出ではなく、写真本来の表現の表現、中平の植物図鑑に近くそれでいて個性を求めるという二律背反の写真を求める存在。

機械式フルマニュアルなフィルムカメラによる撮影行為における主体性の獲得、偶然性という固有性、確固たる空間を切り取るという確証性、要するにパンクでアナーキーな行為である。

 

このすべてにおいて影響しているのが、SNSであると思う。

FacebookやTwitterやInstagramなど、現実と仮想世界の狭間においてお互いの存在を確認し合う現代の消費行動の神、ここにおいて写真とは『個人イメージ創出の表現ツール』となった

それまでの写真は、記録という本来の目的と、中平のいう旧来の芸術、そして個人的趣味性の高いものであった。

スマートフォンとSNSの登場で大量の写真を即座に共有することが可能になり、SNSは中平のいう「個の解体/中心のない個」の現代においてアイデンティティを確認する場となったのだ。

現実世界とは違う、現実の自分を知らない「知らない人たち」との交友は、仮想世界でも個人の存在を確認することができることが示された。

個性が消え去った今、SNSの世界において承認欲求を得ることは現代人において非常に重要な行為になったのだ。

 

そこで写真というツールが注目される。

写真は中平が否定した「自分の世界観」を表現することが容易いからだ。

だが中平が否定した通り、「いいね」をもらうには大衆的な「世界はこうあるべき」という世界観の提示が必要だ。これが「バズる」である。

要するに、1970年代に中平が指摘していた「時代が求めている世界観を持つ個性が消費される構造」が再現されている

だがSNSは「それで良い」のだ。たくさんの人から評価され、拡散され、フォロワーが増えれば良い。SNSは芸術表現の場ではなく、承認欲求を得る場であるからだ

よって、①や②がウケる。バズる。そしてアンチテーゼとして③が存在できる。

 

ではなぜ①②がウケるのか?

これは「解体した世界はこうあるべき」という表現であるからだと思う。

戦後のリアリズム、プロヴォーク時代のアレ・ブレ・ボケ、現代の個の解体・・・日本の写真の潮流は時代に合わせて変化していく。

今、この「解体した世界はこうあるべき」が若者の間で流行しているのは、社会への不安が強いからだと思う

これはアメリカのミレニアル世代、中国の90後、日本の「絶望の国の幸福な若者たち」のような、多様化した情報社会で生きる若者のなんとなく不安な感情だ。

今はあらゆる表現が行き着いた時代であり、個の確立が困難な時代でもある。さらにコミュニティが崩壊し、個が何者なのか誰にもわからない時代だ。

1960年代の若者と似たような時代の大きな転換期であり、1960年代の若者は過去の否定と破壊に感情をぶつけたが、現在は個が切り刻まれ無数の断片が漂流しているような状態。まさに中平が指摘していた問題が、より複雑になって再来しているのだ。

だからこそ、「解体した世界はこうあるべき」という表現が好まれているのではないだろうか?

 

①は世界がこうあってほしいという肯定的な表現、②は実際の世界はこうなのだというこれまた肯定的な表現、だがどちらもそこに個は否定され解体されている。

個が解体された場を、あえて個性的に表現する。

この矛盾した「解体した世界はこうあるべき」という個の主張こそが、現在「いいね」される写真表現であると思うのだ。

絶景写真はより絶景に、何でもない風景はよりノスタルジックに、個の抜けた穴を「こうあるべき世界観」で埋める作業がRAW現像であり、そこには不安が現れている。

その同じ不安感をSNSで共有することで、旧来のコミュニティであったような安心を求めている、それが現代に求められる表現なのではないだろうか?

 

 

まとめ

中平卓馬の写真論は、時代を予言していたと思うし、だからこそ中平卓馬の苦悩の人生が文章をなぞるように歩んでいったように思う。

僕がこの本を手にとった理由も、そこにあるのではないかということだ。

写真の技術的なことではなく、もっと原理的なもの、それは表現について。

何も芸術表現は如何に?を求めていたのではなく、そもそもなぜ写真を撮るのか?を求めていたように思う。

だからこそ、フィルムカメラを始めたのだ。

 

note.com

ということで、結局プラウベルマキナ67で登山してこの写真を撮りに行った。

これこそ、現時点で僕がしたい表現の極致なのだ。

そう自負できるほど、超主観的個人的に「いいね」な写真が撮れた。

 

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中平卓馬のいう植物図鑑的な写真ではないが、僕も「あるがままの世界を受け入れた写真表現」が好きだ。

だからこそ、この写真を狙って撮りに行った。この初めての経験のためには、中判フィルムとプラウベルマキナ67が必要だったわけだ。

以上、中平卓馬の言葉を借りた、プラウベルマキナ67への愛情表現でした。

はやく10万円来ないかな。

 

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