SIGMA fp のレビュー決定版

SIGMA fp を購入して2年とちょっと。

おかげさまで最後のカメラ・・・となるわけもなく、というか今まで以上に写真の開かれた世界へ誘われることに。

これぞfp、これがSIGMA、刮目せよSIGMA fp の真髄を!

 

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2年経ったSIGMA fp 、SIGMAさん公式に動画作ってもらったり、良い思い出しか無い。

5000文字を超えたレビューを超越した愛に迫る。

 

tabing.hatenablog.com

買ったときの妄言、業界バズリした記念碑的記事。

SIGMA fp よ永遠に!

令和に感じるPENTAX 645Dの写真の雰囲気を見よ、そして重い

令和の645D、大艦巨砲主義の亡霊、時代錯誤の一周回った正義、でっかいセンサーは良いものだ!PENTAX 645Dよ!PENTAXは帰ってきたのだ!

要するにこんな子熊みたいなカメラを担いで、野山を駆け回っているのでデュークなマタギに眉間をビシッとやられそうですが、これは良いものです。

単純に撮影写真をネットの海に解き放ってやります。これは645Dユーザー(準絶滅危惧種)の義務及び抵抗の証である。

 

 

主戦場の風景写真

4000万画素のCCDセンサーが火を吹くぜ!

CCDとCMOSを比べると、「やっぱりCCDの色乗りは一味違うぜ!」とよく言われる。しかしこれは往時の技術的限界であり、実は都市伝説なんて噂もあるが、違う!これぞCCDの色乗りだあああ!と思えばよろしい。

写真とは撮るものの意志そのものであるのだから。

カメラやレンズに纏わりつくストーリーこそ、寄生された人間は貴重な休日に世界を駆け巡るのである。

それにしても重い。

 

 

そんなCCDセンサーの吐き出すJPEGは噂通り、不運(ハードラック)と踊(ダンス)っちまったカラーでとっぽいのである。

特に緑色が夜間光そうなくらいテラテラなので、著者(オールドタイプ)には珍しくRAW現像してみた。

さすがはセンサーサイズの暴力、RAW現像に余裕がある。

今どきの若者(ニュータイプ)が好きそうなHDRギラギラの絶景写真っぽいテリテリ写真も楽勝。

この写真は645Dの威力を発揮していると言えるだろう。

そして重い。

 

 

中判といえば開放ボケ。

これはもうボッケっボケ・・・ではない。

CIAの開示情報によれば、645サイズに遠く及ばない中判デジタルセンサーの大きさ程度では、よっぽどF値の低いレンズでないとフルサイズ機にすら勝てないボケ量だとか。

しかし、中判レンズでF2以下のものとなるとまあ見当たらない。

ということで、単純なボケ量だとフルサイズ機にF1.4くらいのレンズでボケ倒せされれば勝てないのである。

だが、この立体感を見てくれ!空気感を見てくれ!

中判デジタルにはスペックでは表せない『何か』があるのだ。

その何かが何かになるくらい沼ボケ倒してるそこのあなたには最高におすすめだ。

そして重い。

 

 

ポートレート、JPEGだと肌がイソジンうがい薬湯に1時間ほど浸かったような色合いになる。

なぜかみんな昭和の銀幕スターのようにこってりした感じに。

これで菅原文太撮りたかったなあ〜

RAW現像しているが、我が娘のポートレート。

PENTAXは風景写真のイメージだったが、この髪の毛の質感や柔らかさの表現力はさすがやね。

やはり開放だと空気感が伝わる。そして立体感が出る。スペック的な物の見方だとなかなか意識できない感覚的な何かがある。そう信じている。信じる力があればこそ、この時代にCCDセンサーカメラを買うという暴挙が可能となるのだ。

そして重い。

 

 

海の男、そしてレンズの歪み。

明暗差が激しい環境だとJPEGでは使い物にならないくらいの失敗写真を量産するが、このような光がフラットかつ強烈であればコントラスト強めのキマった写真となる。

645Dは場所を選ぶ。そんじょそこらの便利カメラと一緒にしてもらいたくない。

キマれば圧倒的な描写、隅々までくっきりこってり写る。キマればね。

そして重い。

 

 

明暗差が激しいと極端な写真になってしまうのだが、RAW現像すれば4000万画素の威力を発揮してくれる。

暗部のグラデーションがけっこう残っている。

その辺は使いようだろう。思えば僕はRAW現像必須のカメラばかり持っているのだが、基本的に面倒くさいので放置してきた。

しかし、645Dで撮った写真は弄り甲斐がある。

そして重い。

 

 

そんなPENTAX 645Dちゃん。

刮目せよ!カメラ界のコロニー落としと呼ばれるこの鈍器感!

これなら深山に分け入り自然の極致を撮ろうとして熊にばったりマッチングしても、それなりのダメージは与えられるであろう。

ちなみにシャッターショックによるブレは凄まじいので(ミラーアップもあるよ)、ピーカン以外は三脚必須。

ということで、とにかく重い、嵩張る、投げ出したくなる衝動と戦いながら撮る写真は、自然と選別されていく。

 

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その辺はこちらに書いているのでよろしければどうぞ。

 

 

以上、重いカメラの話でした。

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645Dで撮った写真は動画写真集にしていますのでよろしければどうぞ。

 

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写真についての書物はこちら。

ライカレンズ開放で撮る溺れた世界


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F1.4で無理矢理撮られた世界は溺れている。

晴天にも関わらず、クセ玉と呼ばれるズミルックス35mm 2ndが電子シャッターのおかげで8000分の1秒のチラ見せが可能となった現代、世界は溺れているのである。

 

このソフトレンズのような描写は、水中の中で嫌々目を開けさせられたプールの授業を思い出す。

目の前のクリアな世界は重層な曇ガラスの中から見る世界となり、世界に対する自らの身体性の範囲が極端に収縮する。

それでいて境界は極めて不明瞭になり、表皮と空気の境界線を腐らせるような世界との繋がりを感じるのであった。

 

スマートフォンで何でもかんでもそれなりに撮れてしまう時代において、カメラの残された「特質」は極めて小さい。
望遠レンズでの圧縮効果や長時間露光撮影のような技術も、やがてアプリやAIにより駆逐されるだろう。

カメラでなければならない理由は、もはや存在しないのである。

 

 

カメラに残されたもの、それは撮影者の恣意性、AIが淘汰するバグである。

表現方法はほぼすべて達成されており、模倣かパロディか現代アート的なメタ消費しか残されていない現代においても、撮影者の意志は自由なのである。

その撮影者の意志を記録するためには、カメラとレンズが必要なのだ。

 

 

晴天にも関わらずF1.4で無理矢理撮られたこれらの写真は、僕の自己主張であり、それは承認欲求とマスに埋没しない自称生産者としての自負の天秤のなせる業なのだ。

経済合理性に縛られ、善き納税者・消費者としての存在しか認められない現代の一市民の成せる理由なき反抗としては優等生だと思う。

なぜならモブキャラではないとの自己主張こそ、我々が社会へ屈服している様のステレオタイプな無様さであるのだから。

 

 

要するに僕の言いたいことは、カメラを買い、レンズを集め、終わりなき日常をエンジョイするのだ!これは例のごとく、言い訳なのだ。

自己に忠実な弁護士、それこそ我々カメラ・レンズ沼の住人。

ということで、SIGMAさん、フルサイズFoveonまだかな〜

 

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このような駄文を書き連ねています。

 

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チャンネル登録者500人超え記念記事でした。

カメラ欲しい〜〜〜