ライカレンズ開放で撮る溺れた世界
F1.4で無理矢理撮られた世界は溺れている。
晴天にも関わらず、クセ玉と呼ばれるズミルックス35mm 2ndが電子シャッターのおかげで8000分の1秒のチラ見せが可能となった現代、世界は溺れているのである。
このソフトレンズのような描写は、水中の中で嫌々目を開けさせられたプールの授業を思い出す。
目の前のクリアな世界は重層な曇ガラスの中から見る世界となり、世界に対する自らの身体性の範囲が極端に収縮する。
それでいて境界は極めて不明瞭になり、表皮と空気の境界線を腐らせるような世界との繋がりを感じるのであった。
スマートフォンで何でもかんでもそれなりに撮れてしまう時代において、カメラの残された「特質」は極めて小さい。
望遠レンズでの圧縮効果や長時間露光撮影のような技術も、やがてアプリやAIにより駆逐されるだろう。
カメラでなければならない理由は、もはや存在しないのである。
カメラに残されたもの、それは撮影者の恣意性、AIが淘汰するバグである。
表現方法はほぼすべて達成されており、模倣かパロディか現代アート的なメタ消費しか残されていない現代においても、撮影者の意志は自由なのである。
その撮影者の意志を記録するためには、カメラとレンズが必要なのだ。
晴天にも関わらずF1.4で無理矢理撮られたこれらの写真は、僕の自己主張であり、それは承認欲求とマスに埋没しない自称生産者としての自負の天秤のなせる業なのだ。
経済合理性に縛られ、善き納税者・消費者としての存在しか認められない現代の一市民の成せる理由なき反抗としては優等生だと思う。
なぜならモブキャラではないとの自己主張こそ、我々が社会へ屈服している様のステレオタイプな無様さであるのだから。
要するに僕の言いたいことは、カメラを買い、レンズを集め、終わりなき日常をエンジョイするのだ!これは例のごとく、言い訳なのだ。
自己に忠実な弁護士、それこそ我々カメラ・レンズ沼の住人。
ということで、SIGMAさん、フルサイズFoveonまだかな〜
このような駄文を書き連ねています。
チャンネル登録者500人超え記念記事でした。
カメラ欲しい〜〜〜