『なぜ植物図鑑か』を読むに至る前置きがなぜ長いのか

なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)

※『なぜ植物図鑑か』を読むに至る前置きを書いたのだが、前置きがクソ長すぎたので別記事にしました。

 

最近、ア・プリオリなフィルムカメラに手を付け、その金属の冷たさを感じるまでもなく中判フィルムカメラを購入した。

 

フィルムカメラを使ってみると、今までデジタルカメラが如何に「私が撮っている」と思わせてくれていたかに気付く。

今まで何度も書いてきたが、写真という活動の中で撮影行為に重きを成す人間であれば、いずれフィルムカメラに行き着く。

それは撮影行為に主体性を感じたいからであり、デジタルカメラやRAW現像は便利であるものの、それは撮影行為への機械による度を越えた配慮であり、そこに僕個人の意志は霧消していく。

 

 

フィルムカメラは「撮影」であり、デジタルカメラは「変換」だ。

フィルムカメラは、カメラという機械と人間の関係性に絶対的な分水嶺がある。露出計やAE撮影機能があろうとも、フィルムを入れ、マニュアルで撮影し、フィルムを取り出してなお、現像するまでそれが写真になるかどうかはわからない。

※だからこそ、最近売れている中古フィルムカメラは機械式のマニュアル機なのだ

デジタルカメラの撮影は、パーツ集めであり、要らないものは容易に捨てることができ、とりあえず記録しておくことも可能だ。そして自宅に帰ってRAW現像することで完結「できる」という余裕がある。

フィルムカメラでの撮影はまさに撮影であり、そこに主体性と責任(そして非現代的な経済的コスト)がある。そう、我が手の内に。

デジタルカメラは作品、自己表現を、容易に高速で大量に複製しつつ、その中から選りすぐりのモノをRAW現像で改造することができる。

 

tabing.hatenablog.com

もちろん、デジタルカメラを批判しているわけではない。最近の僕が、フィルムカメラを初めたからこそ、RAW現像に手を付けたことからもおわかりいただけるであろう。

 

 

だが、僕がカメラに、写真にここまで熱を入れる理由の醍醐味が「撮影」だということが理解できた。

撮影したその瞬間に、全ての選択と決断、原因と結果が集約し、あとはその瞬間を現像という作業を経て確認するだけの一発勝負の世界。

出来上がった写真には、その瞬間の自分の思考から手の震えまでの記録が押し込まれている。撮影者にとって、その一枚には1億画素のデジタルデータよりも濃密な情報が収められているのだ。

 

そう考えた時、ではそもそも写真とはなにか?という疑念が湧いた。

今までの僕は写真=記録であったからだ。だが、フィルムカメラの世界を知ることで、写真の奥深さを逆説的に知ったのだ。

家電のようなデジタルカメラでは、あくまでも「失敗しない記録複製機」という存在であり、作品創りや撮りたいイメージなんてものはあまり浮かばなかった。あくまでも記録なのだ。

そもそもカメラを初めたきっかけは、旅行や登山や子供の誕生といった「記録」を目的にしていたからだ。

では、フィルムカメラを使うことによって生じた写真への複雑な感情は何なのだろうか?

今までカメラやレンズのスペック競争に身を投じ、撮影技術本しか読んでこなかったわけだが、ここにきて写真の何たるかを学びたくなった。この知的欲求を満たしてくれるには・・・あの本を買うしか無い!

 

ということで、前置きがクソ長くなりましたが、要するに『なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)』を買ったわけです。

予想通り、これにずいぶんヤラれまして、前置きの文章を中平卓馬調にしてみましたが如何だったでしょうか?

 

tabing.hatenablog.com

本編はこちらに続きます。