なぜ私が中判カメラを買ったのかと、それに対する言い訳
題名の通りですが、中判カメラを購入しました。
もうね、これは仕方がないんですよね。
運命のLeicaM3を手にしたときから決まっていた、運命と書いて「さだめ」なんですよ。
そんな「さだめ」である中判カメラへの道を書いてみようと思う。同じさだめを共有する皆様のために人柱となります。
フィルムカメラへの目覚め、それは沼
この時は人生最後のカメラとまで思ってました。
お値段の方もそれくらいしましたしね。
初めてのフィルムカメラ、そしてレンジファインダーカメラです。
一応デジタルカメラ世代なんで、フィルムカメラってのはどうも非合理的かつコスパ最悪だと思ってました。
このご時世、35mmフィルムは一本1000円前後はしますし、現像はカメラのキタムラで600円、それで24枚か36枚しか撮れません。
それにレンジファインダーカメラ、一眼レフカメラに慣れているととにかく使いづらい。
なんせキャップ付けてても気づかないでシャッター切っちゃいますからね。ボケもわからない、どんなにピント合わせたつもりでも構図がズレてたり・・・
・・・でも、最高でした。
M3のすべての所作の美しさ、Leicaレンズのうっとりする立体感ととろけるボケ。
フィルム写真はデジタルデータにはない「何か」がありまして、デジタルカメラ的な画素数では図りきれない美しさがあります。
そうです、これこそが『自己満足』です。
家族や友人に写真を見せましたが、「ふ~ん、なんか違う気がする」くらいでした。
ですが、この自己満足のために、自分の親より年上のカメラにけっこうな大枚を叩いているわけです。
なぜカメラやレンズをいくつも買うのかと聞かれたら、「お宅には鍋が何種類ありますか?」と問う。
— 鉄人96号 (@tetsujin96) 2020年3月24日
「調理の用途によって、大きさの違う鍋がいくつかあるはずです。それと一緒なんです」
そう答えると、たいてい意味がわからないと言われ、iPhoneで良いじゃんと捨て台詞を吐かれる。#レンズ沼
これがいわゆるカメラ沼、レンズ沼というやつで、傍から見たら完全に妖怪の類です。
そんなこんなですが、M3のおかげで主体的な撮影道具としてのフィルムカメラに目覚めました。
いや、カメラという機械にヤラれました。
デジタルカメラは生活家電
フィルムカメラを嗜むと、「デジタルカメラは家電」とよく言われる意味がやっとわかりました。
10年前に使っていた冷蔵庫覚えてますか?覚えてませんよね?愛着もクソもないです。
なんせ食べ物や飲み物を腐らないように冷やしてくれていた存在であり、特別思い入れもないはずです。
冷蔵庫は機能で買いますからね。便利で省エネなら良し。
まさに三種の神器ですが、僕はデジタルカメラ=神器になったのだと思います。
もちろんこのデジタルカメラにはスマホも入ります。
スマホの登場、そしてSNSの普及で、現代人にとってデジタルカメラは無くてはならない存在を超えた、あって当然な最低限度の生活家電になったのです。
そうなると、各社スペック競争になります。瞳AFなんてまさにですね。
そこには写真を撮る行為ではなく、万人受けしやすい機能、もっといえば誰でもまあまあな写真が簡単に撮れることが至上命題になります。
写真を撮ることではなく、失敗させない、カメラが何でもやってくれる、そんな需要がカメラに求められます。
ということで、カメラは家電になりました。
決して悪い意味ではなく、カメラが身近になったがための適応といえるでしょう。
ですが、上記リンクのような撮影する際の「主体感」は無くなりました。
カメラに任せればたいてい撮れますし、自宅に帰ってRAW現像すれば良いなと頭の片隅にいつもチラついていますよね。
それが主体感の喪失、生活家電と化したカメラの宿命です。
趣味性の高いデジタルカメラもありますが、中古市場を見てみましょう。
5年前のデジタルカメラは半額以下です。そうです、機能が売りのデジタルカメラは、消耗品、流行品なのです。
フィルムカメラの所有感
そんなことを考えていたのは、要するにLeicaR8を買う言い訳だったんですね。
なんせLeicaM3買って半年経ってませんからね。しかも一眼レフカメラですよ。デジタル一眼レフカメラ持ってるし、貰ったNikonF3も控えているにも関わらずですよ。
これはレンズ沼ですね。M3でLeicaレンズ=Summicronを使ってしまった瞬間、ライカレンズが何たるかを悟ったわけです。
なので不人気なLeicaRですが、Leicaレンズが安く買えるというので飛びついたわけです。
あとLeicaを手にした時の所有感、これもたまらなかったです。
デジタルカメラは機能で買いますが、もはや機能に対する経済体制が崩壊しかけのフィルムカメラは判官贔屓的な哀愁もあり、さらにLeicaのLeica足る重さ、ズッシリ感、これ一度手にしたらヘロインよりヤバい中毒性のある所有感を知ってしまうんですな。
Leicaレンズの現代レンズにはない設計思想、そしてLeicaの所有感により、フィルムカメラに完全に目覚めてしまいました。
フィルム写真の情報量と自己満足
noteでLeicaM3とR8で撮った写真をアップしています。
見ていただいたらわかると思いますが、やはりフィルムは良い。
いわゆるデジタル画素でいえば、正直1000万画素くらいじゃないでしょうか?
簡単には画素数化できないらしいですが・・・
写真趣味者の方、一度で良いからフィルム写真をプリントしてみてください。
高画質ではないですが、立体感、存在感が大迫くらい半端ないんです。
これは撮影時の試行錯誤(マニュアル露出やマニュアルフォーカス)、36枚という撮影枚数制限による不安、そしてそもそもちゃんと撮れているかどうかすら現像しないとわからないという恐怖感、この全て溶け込んだ写真だからなんです。
なので、撮影者本人が撮影したプリント写真を見ると、情報量がトルコアイスくらい濃厚なんですね。
無理矢理データ化するとしたら一枚1GBくらいに感じます。
デジタルカメラであれば、同じ場面で連射しまくって100枚撮ってRAW現像すれば自分なりの「決定的瞬間」は作れます。
ですがフィルムカメラは、
「マニュアル撮影での主体感」✕「撮影枚数制限」✕「フィルム代と現像代による経済的精神的負担」✕「撮影から現像までのタイムラグ」=自己満足
という公式が成り立ちます。
これはたまらんですよ。
デジタルカメラは、結果だけが求められます。タイムラプスや長時間露光などの労力のかかる技術はありますが、撮影自体は作業的ですし、保険がたくさんあります。
フィルムカメラは過程>結果です。撮るだけでも大変ですからね。
なので結果ではなく、撮影自体を楽しみたい趣味人にはフィルムカメラがおすすめなんです。
もちろんデジタルカメラは、結果=作品創りがメインの人には最高です。
カメラは過程と結果を分けて考えるツールになったのだと思います。
半自動運転ができる車が売られている時代に、あえてマニュアル車を選ぶのと同じように。
中判カメラこそ最高の自己満足製造機
そして先程の公式に当てはめると、中判カメラこそ至高の存在だと思いませんか?
35mmフィルムカメラだと、
「マニュアル撮影」✕「撮影枚数制限(24or36枚)」✕「フィルム代(1本1000円前後)と現像代(最寄りのカメラ店・600円くらい)による経済的精神的負担」✕「撮影から現像までのタイムラグ(最短一時間)」=自己満足
中判フィルムカメラ(6×7)になりますと、
「マニュアル撮影での主体感」✕「撮影枚数制限(10枚)」✕「フィルム代(1本1000円前後※10枚しか撮れないのにだよ)と現像代(現像してくれる店に送付・1本1000円前後)による経済的精神的負担」✕「撮影から現像までのタイムラグ(すんごい時間かかる)」=絶頂自己満足
もちろんこの公式に当てはめると大判カメラが最強でしょうが、あちらはすでに非現実世界のオーパーツとなっておりますので、アマチュア庶民がギリギリ楽しめる最凶ラインは中判カメラではないでしょうか?
もちろんもちろん、現像を自分で行うという手もありまして、僕もそろそろやってみたいと思っておりますが。
こんなラマヌジャンもドン引きなイカれた公式を発見したので、僕は毎夜うなされることになります。
「う~ん、67か?う~ん、66だろうか?ランニングコストは?うう~ん、ハッセル・・・いやブロニカ、いや絶対ブロニカ買ったらどうせハッセル買うやんか・・・ううう、69・・・」
そして、そして結局買う羽目になるのをわかっていながら悶え苦しむこと1ヶ月。
購入=物欲度✕情報収集量✕情報収集にかけた時間 VS 諦める=経済的負担✕将来設計(人生100年時代+老後2000万円)✕家族からの白い目
この公式により、僕は購入>諦めるとなり、中判カメラを購入したのだ。
これは数学的に証明できる結果であり、要するに真理なのだ。
で、我が家に届いたのはプラウベルマキナ67
いいですか皆様、プラウベルマキナ67ですよ。
もうどうにでもなれや!はははは!
そして私は父ジオンの元に召されるであろう!
※プラウベルマキナ67購入直前、某ウイルスに対する経済対策として国民に10万円配布するという怪情報が流れていたのであった。
レビューはこちら
我慢できない人には先に作例をどうぞ!