バタイユと写真について「防湿庫が酸欠状態な我々は如何にして正気を保っているのか?」
久々の長文駄文譚、バタイユ関連本を読み漁ったあとの残滓を無理矢理写真にタグ付けした次第。
バタイユの生産消費批判はそれはそれはダイナミックに現代社会に生きる我々を直撃し、防湿庫がパンパンで酸欠状態のそこのあなたなんかは涙なしには見れないのである。
ポトラッチ的非生産消費=蕩尽こそ、人間本来のエネルギー贈与サイクルの本質であると言ってのけたバタイユは、なるほどかなりパンクな人生を歩んでいる。
しかし、冷静に鑑みると、我々のようなカメラ沼の住人は、非生産消費に近いポトラッチマップカメラ徘徊に勤しみ、センサーサイズがどうだ、モノクロのグラデーションがどうだと宣っている。
一般人から見れば、黒魔術のような業界用語が飛び交う邪悪な儀式・・・SIGMAさんFoveonまだかな?
そこにあるのはなにか?
生産消費という資本主義経済に汚染された、いずれ競争的消費行動に押し込まれるこの世の全てに対してのアンチテーゼ的生産消費といえる。
結局は大量消費社会におけるメタ的生産消費なのではあるが、そこに流行のような強い衝動的承認欲求を諦めた一種の達観がある。
故にジメジメした暗がりで界隈を築き、お互いの傷をなめ合いながら、表現という無益な行為を生きがいに社畜道でのたうつのである。
バタイユのいう呪われた部分とは、我々にとっては聖なる夜なのだ。
メタ的生産消費における一種の達観、そして「客観的」客観的異常行動における疑似非生産消費、これこそ我々カメラ沼の住人であり、故に現代写真の究極の神経興奮閾値、すなわち終わりの始まりなのである。
しかしその崩壊の瞬間にこそ生きる意味を見出す、故に生産なき破壊により演出された自然サイクルに囚われることなく、崩壊の最中のとある結節点に生きる自己を自己として見出す。
その瞬間にこそ、あらゆる社会のしがらみから抜け出た無重力状態が体感できるのである。