中平卓馬のプロヴォークの挑戦とは何だったのか?そして現代写真について

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久々に中平卓馬についての本を読んだので、プロヴォークが挑戦した理由と、現代写真はそれすらも超えてしまったという考察を長々と書きました。

 

 

プロヴォークの挑戦とは何だったのか?

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プロヴォークとは写真家の多木浩二と中平卓馬、そして森山大道たちにより1968年から3冊だけ発行された伝説的同人誌。

アレブレボケなどのセンセーショナルかつ実験的な写真で、世界的にも影響を与えた。

 

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日本写真界の異端の天才である中平卓馬については以前も書いたが、この挑戦は結局失敗に終わる。もちろん名声を得るという形で『経済的』成功にはつながったが、中平卓馬は実験の失敗を皮肉っている。

だが、このプロヴォークの挑戦とは何だったのか?

水声社の『中平卓馬論』をもとに、その挑戦とは何だったのかを深堀りしていこう。

まず中平と多木の起草したプロヴォークの宣言文をちょっと長いが引用してみる。

 

映像はそれ自体としては思想ではない。観念のような全体性を持ちえず、言葉のように可換的な記号でもない。 しかしその非可逆的な物質性ーカメラによって切り取られた現実ーは言葉にとっては裏側の世界であり、それ故に時に言葉や観念の世界を誘発する。 その時、言葉は、固定され概念となった自らを乗り越え、新しい言葉、つまりは新しい思想に変身する。


言葉がその物質的基盤、要するにリアリティーを失い、宙に舞う他ならぬ今、僕たち写真家にできる事は、既にある言葉では到底捉えることのできない現実の断片を、自らの目で捕獲していくこと、そして言葉に対して、思想に対していくつかの資料を積極的に提出してゆくことでなければならない。
プロヴォークが、 そして我々が「思想のための挑発的資料」というサブタイトルを多少の恥ずかしさを忍んでつけたのはこのような意味からである。

 

難解だが、これを中平卓馬論の江藤健一郎氏の要約から僕なりに噛み砕いて書いてみる。

 

要するに、写真と言葉の違いを検証し、写真のあるべき姿を取り戻すための挑戦というわけだ。
ここでいう言葉とは、思想や観念を指すと思う。戦争や高度経済成長、そして情報化社会へ向かう1960年代の世相を指している。
当時は、「確かなモノ」が崩壊していく時代だった。豊かさと自由化の中で、人間本来の、歴史的な「確かなモノ」は商品と広告に埋め尽くされ、空虚感だけが残ったような感覚だ。

平和や豊かさを求めてあらゆるものを代償にした結果、手にしたものは単なる大量消費社会だったのだ。1968年とは、世界的に若者の政治活動が本格化した時代でもあった。


中平たちの挑戦は、空虚な現実の中で「確かなモノ」を写真の力で再構築しようとしたのではないだろうか?

写真とは少なからず物質性がある。それは光学的な複製だからだ。これが記録だ。
ただの断片的な記録なので思想はないため、全体であることはない。
言語は恣意的で可逆的な記号であり、擬似的な全体性を有する。
例えば「リンゴ」と発声すれば、それはリンゴの概念やイメージ、全体性を意味することができる。
しかし、「その一つのリンゴの写真」は、たしかにリンゴではあるが「その一つのリンゴ」との物理関係(そのリンゴ、その光、その時間)の複製なので記録であり、現実の断片なのだ。
中平卓馬は、これが思想や観念や言葉と写真が質的に異なることだと指摘する。

 

言葉が現実に対応できなくなった今、現実に基盤をおく写真は、思想と言葉を触発して、来たるべき新たな思想と言葉を呼び寄せることができないだろうか?
プロヴォークは写真という「確かな物質的現実」を利用し、世界にもう一度リアリティーを生み出そうという実験だったのだ。

 

プロヴォークの挑戦から眺める現代写真について

では、現代の写真はどうであろうか?
現代の写真は、この中平たちの主張を圧倒的な情報量で完全に破壊したといえる。
圧倒的な物量で、中平たちがいうリアリティーのない世界を、量だけでバーチャル化し、人々は「それも現実だ」と思って生きている。

写真が簡単に誰でもほぼ無限に撮れてしまうデジタルカメラが普及し、スマートフォンとSNSがさらに写真を日常生活の中に溶け込ませた。
GAFAは、今までにないくらい個人の内面に、生活に、脳に接近したニッチな情報まで映像として収集している。
ここでついに、中平のいう写真の物質的現実性は言葉と同じ道を辿る。
写真は生活の一部になり、かつ質のない量により圧倒され、質の物質的価値すら消え去ってしまった。
「質のない量」とは、無価値な写真という意味ではなく、かつての写真の記録する価値すらない瞬間まで記録することをいう。
すべてが記録され、簡単にシェアすることができ、編集も用意で技術的時間的束縛はほぼオートメーション化された。
故に現代はさらなる現実の空虚化が起こり、さらにその先にはバーチャルな空間が広がっている。

 

写真の価値とは、物質的であり全体性ではないオリジナリティある記録の断片であったのに、現代は写真こそが全体を構成し、全体を押し広げ、全体の中に人々を押し込める要因になってしまった。
質感を求めたプロヴォークの挑戦は、質感のない量により駆逐されたのだ。

 

しかし、これは大衆的な写真=記録ニーズの頂点に達したともいえる。
ギリギリ昭和生まれの僕の小さい頃の写真はそう多くない。もちろん動画は運動会と誕生日くらい。だがこれも写真好きの祖父のおかげで同世代の中では比較的多いほうだ。
我が娘は生まれてからの一年で、1TBもの情報が記録されている。あ、撮ったのはもちろん僕です。
妹は子どもたちのすべてをiPhoneだけで撮影し、ほぼ印刷することなくひたすら記録し続けている。
さらにSNSやLINEで家族や友人と簡単に共有できる。
まさに写真は人間のツールという面で見れば、もっとも成功したものの一つといえるだろう。

 

そんな現代の写真愛好家である我々

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では、そんな時代に我々のような写真ーカメラ愛好家の存在とは何なのであろうか?
質のない圧倒的量の前で、写真の価値を声高に叫んでも、もはや大衆の耳には届かない。
消費社会へのアンチテーゼとしての趣味性の高い写真活動も、結局は消費社会アンチテーゼという枠組みの中の消費であり、我が防湿庫がそれを数学的正しさで証明している。

写真の記録という価値は完全に消え去り、表現行為はニッチな娯楽と成り下がり、写真業界における経済的成功や名声の獲得はもはやお伽噺で、カメラ業界は縮小していくパイの消極的奪い合いに徹し、そして我々は今夜も第3のビール片手にマップカメラの在庫チェックをするのだ。


ここまで写真を否定しておいてなんだが、僕がこのプロヴォークの挑戦について感じるのはまさしく時代性だ。
中平は写真に時代性を強く求めだが、輪廻転生の如く、この時代性は巡ってくると思っている。
写真とは、中平たちが指摘したとおり、あくまでも「現実の中での確かなモノ」であることに変わりはないからだ。
現代社会において、物質的なものはいくら残っているだろうか?
ほぼ全てが見えないシステムに覆われ、我々は自主的に、意識的に選択して生きていると思っていながら、実際問題全く流されて生きているに過ぎない。
写真は物質的であり、撮影行為は身体性のある行為なのは変わらない。
僕のようにスマホがあるにも関わらず、露出を当て感で計算しながらフィルムカメラで撮影している人間もいる。
このブログでは毎度お馴染みであるが、写真=撮影=身体性という公式が残っているのであれば、写真は逆説的に生き残るであろう。


身体性とは体を動かすことであり、自らの感覚の反応を確認することだ。

Amazonで買い物するときはボーッとしながらアルゴリズムの海の中のボタンを一つクリックするだけで良いが、海で釣りをする時は釣糸の先の針のその先まで自らの神経がつながっているような感覚に陥る。
その時の集中こそが、人間本来の生活を思い出させてくれる。鬼滅の刃が流行ったのもこれかな?
要するに、身体性を意識し、全集中するような行為に我々は飢えているのだ。

「ブルシット・ジョブ」よろしく、我々は身体性のない世界で、何も考えずただストレスだけをお釣りに生きている。


こんな話をすると意識高い系の人に怒られそうだが、資本主義経済システムの中にいるだけで眠くなってしまう人間もいるのだ。資本主義経済はピラミッド型の枠組みであり、その外側に何があるか気にさせないようにシステム化されている。結局は井の中の蛙大海を知らずなのだ。あ、もちろん外側にあるのが共産主義なんて言いませんよ。

要するに複雑な文明社会に生きることは安全欲求を満たしてくれるのでありがたいのだが、そのために払う代償感は人それぞれ違うのであって、だからこそ写真趣味が存在するということだ。

中平卓馬の「写真=現実の断片」という思想は、身体性の喪失感が強くなってきたその時、その時代においてまた必要とされる。

これは写真だけではない。現実と全体の狭間、人間と社会との折り合いであり、人間は社会的動物ながら反社会的本能を決して忘れていない証なのだ。

 

相変わらずクソ長い回り道だったが・・・これからの写真の挑戦についてはまた次回!

 

 

参考文献