SIGMAfpとLeicaレンズで撮る海と地層~絵画と写真
Camera : SIGMA fp
Lens :Leica summicron-R50mm
今回は夏なので海、しかもブラタモリにも来てほしい島根県浜田市にある畳ヶ浦にやってきた。
夏休み前、平日夕方ともなれば人影も少ない。
しかし強烈な西日のために、オールドレンズには厳しい環境に。
だからこそ偶然という名の必然的なこの瞬間だけの写真が撮れるはずだ。
畳ヶ浦は地震により海底が隆起した地質学的にも貴重な場所。
心霊スポットにもなっているトンネルを行く。
こんな暗がりなのにライトだけ明るい状況でも、SIGMAfpなら壁の指の走った跡までクッキリ!
あ、心霊現象じゃないですよ、たぶん。
トンネルを抜けるとそこは、超逆光の激烈西日。
思わずレンズもぶっ飛ぶ光の暴走。
でもこの暗算では計算できない光を捉えるために、オールドレンズを使っているのよね。
だからこそ、あえてのモノクロ。
モノクロだと光の像が誤魔化せない。カラーにはない、絵画でもない、そして眼でも確認できない光の挙動をしっかりと記録できる。
カラー写真がウィリアム・エグルストンたちが活躍するまで、芸術界だけでなくアート写真界からも「大衆」扱いされていたのはまさにここだろう。
写真術は多くの絵画を否定してきたし、また結局は否定するだろう。それに対して画家は深く感謝すべきである。
写真術によって忠実な描写という苦役から解放されて、絵画はもっと高尚な仕事である抽象を追求できるようになった
スーザン・ソンタグは「写真論」で、このエドワード・ウェストンの言葉を引用した。
写真の登場により、記録としての絵画の用途は奪われた。だからこそ、抽象という絵画の目指した高尚な光の表現だけに取り組める「大義名分」を得たというわけだ。
単なる絵画のオワコン化ではなく、絵画の担ってきた、担わざるを得なかった「記録」というテーマを大手を振って「無視」できるようになったわけだ。
これは逆説的であり、絵画の評価における特殊性を表しているだろう。
写真の岩のようなものはノジュールという。貝殻に含まれる炭酸カルシウムの働きでコンクリート状になった団塊だ。
絵画は表現を追求するあまり、最終的にはこのノジュールのように「なぜこれがあるのか」にまで到達できたのかもしれない。
ノジュールは岩のように存在感があるが、これが貝の化石のようなものだと言われてもわからないし、そもそも成り立ちなど気にもかけない。
表現を追い込むと、存在感だけにまで削ぎ落とすことができるのかもしれない。
そうなると、写真はどうなのか?
写真は絵画と違って、技術的なハードルは低い。なんせ今や子どもでもピントと露出を合わせて撮れる時代だ。
さらに情報量に限界が設けられており、複製も可能で、時間的な制限が非常に強い。
この写真はまさにそうで、教科書的な露出やピント合わせでは減点だろうが、表現的な尺度では「技術的視点は不要」と言ってしまえる。
だがデジタルカメラによる技術的表現的制限内に見事に収まっている。
要するに、「僕は海面と光の隙間を撮りたかったんだ」で済む話なのだ。
そう考えると、写真はカメラという機械にすべてを委ねているという絶対的なルールがある。
もちろん撮影後に何かしらの表現を付け加えて写真表現を超えることは可能だが、写真としてはカメラという絶対君主の庇護下にある。
絵画はキャンパスという場さえあれば良い。
ここが写真の面白いところだと僕は思う。
写真は子どもでも撮れて、カメラができる範囲なら何をしても良い。
サッカーでいうボールを手に持ったらダメ。
ルールがあることで、表現行為の共感性が担保できるのだ。だからこそ、流行の写真表現があり、カメラやレンズのスペックを語ることが出来、多様な撮影対象と表現技巧が存在できる。
なんせ今回撮った写真で一番のお気に入りがこれなのだ。
おそらく、普通だと畳ヶ浦では海と奇怪なノジュールが並ぶ景観こそが主題にならざるを得ない、それくらい当然で突飛な環境。
この写真と出会えたのは、僕がカメラを持っていたから。
ということは、カメラ(レンズ)という制限があるからこそ記録できる空間があるのだ。
抽象画の巨匠が挑んだのは、この制限された空間なのだ。
写真は制限があるからこそ、そこに表現的な視点が内包されており、光の感覚が無意識に介在している。
ただあるものを記録しながらも、そこに批評的な主観の表現が棲み着いている。
おそらくそこに気づくということ、「カメラの存在を通している自分」がいることに気づくことで、改めて「写真とは何か?」を考えるきっかけがあるのではなかろうか。
これが「写真家の業」なのだ。
最近、深瀬昌久の写真集を読み、そう思うようになった。
これは突き詰めれば詰めるほど諸刃の剣となって苦悩するという必然が見えているのにもかかわらず、突き詰めざるを得ない性分=表現なのである。
深瀬昌久さんについてはまた今度書いてみよう!
というわけで、中平卓馬ー深瀬昌久という危険なラインを辿ってしまっているのだ。
それにスーザン・ソンタグ、最近はどうせ外出自粛中だし本ばかり読んでいて、例の業に呼ばれている。
なのでたまにはこういうノスタルジックな写真も良い。
それにしても写真は面白い、今まで写真論や写真集にはそこまで興味がなかったのだが、いろいろと学んでみると単なるアートカテゴリの一分野かと思っていたのが誤りであった事に気づいた。
そこには哲学、心理学、脳科学などなど、僕の好きな「どうせ答えが出ない」領域を過分に含んでいることがわかった。
表現行為に潜む宿痾の森の探検、それこそが人生をやんわり賭けるにはもってこいのフィールドなのだ。
しかし、そこにのめり込むと・・・は、また今度書いてみたいと思う。
写真についてのあれこれをジェットコースターのように駆け巡るスーザン・ソンタグさん、とても聡明だけれど一緒に買物には行きたくないタイプ。
けっこう高かったけど、写真が1枚1枚濃厚過ぎてちょっとずつしか読めなかったのでほぼ無料な深瀬昌久の写真集。
これを見たら、色んな意味でもう戻れなくなる。どこから?
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