「さよならヨーロッパ、こんにちわアジア」文化の玄関口イスタンブール
7月20日
ついに帰ってきたアジア。
といってもアジアのくくりは広すぎるのでもちろん郷愁の念など微塵も感じない。
町中ケバブの匂いしかしない。
そう、ここはトルコ。
オスマン帝国が栄えたヨーロッパとアジアをつなぐ国だ。
しかもここイスタンブールは、かつて東ローマ帝国の首都であり、オスマン帝国の首都でもあったという何とも運命的な都市だ。
夜行バスで疲れた身体にムチを打ち、謎めいたイスタンブールの町中へ向かう。
オトガル(バスターミナル)はさすがバス大国だけあってかなりの広さだ。
地下鉄に乗るための小銭欲しさに朝食をとったが、さっそくトルコ人同士の喧嘩を見る。イスラム圏は1日何度もケンカに遭遇することがある。でも殴り合いは滅多にしない。
さっそく出迎えのトルコアイス。
あんなに伸びるのに食べてみると硬いんだなこれが。
イスタンブールはケバブ屋だらけ。
荷物を置いて早速海へ。ここまででかなり紆余曲折あったのだが、また別の機会で。
ここが歴史好きにはたまらない金角湾。
1453年、オスマン帝国スルタンのメフメット2世はついに念願の東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルを手中に収めた。のちのイスタンブールだ。
当時コンスタンティノープルは世界最強の要塞都市だった。前面を現在にも残る長大な城壁で覆い、背後は海に守られた難攻不落の城。地上から攻めても一向に落ちない。しかもボスポラス海峡の入り口である金角湾を鎖で封じられているため、頼みの海軍も手出しできない。
そこでメフメット2世が考えだした妙策は、世紀の中2病的コペルニクス的大転回だった。
『船ってがんばりゃ陸も行けるっしょ』
メフメット2世は凡人と小市民では絶対に思いつかない「油を塗った木で道を作る」という奇策に出る。そういえば我らが日本でも鹿を崖から突き落として『馬でも行けるっしょ』とか言って突っ込んでいった猛者がいたなあ。狂人と天才は紙一重というけども、付き合わされるものにとってはさぞや迷惑だったに違いない。
反対側の陸から丘を越えて滑り落ちてくる70隻の艦隊を見た時、コンスタンティノープルの人たちはどう思ったのだろう。
かくして大きく士気を砕かれたコンスタンティノープルはその後の戦いで東ローマ帝国の歴史に終止符を打った。
そんな船が滑り落ちてきた金角湾にいる。
一大観光エリアに釣り人というコントラスト
名物サバサンドは骨だらけなのでかぶりつくのは危険
今から向かうは丘の上のスレイマニエ・モスク
かなり坂道を登りようやく辿り着いた。
モスクは外見は立派だが、中はいたってシンプル。タイルの装飾が美しいが、キリスト教の教会や仏教寺院と比べると「民衆の祈りの場」という意味合いが強い。
イスラム教は偶像崇拝を禁止しているので、彫刻や絵もない。とにかくだだっ広いところに、だだっ広い絨毯を引いている。そこに沢山の人が祈っている・・・かと思えば寝ていたり子供が遊んでいたりする。一種の社交場のようにもなっているのかもしれない。
ステンドグラスとタイルの美しさ
エジプシャンバザールを越えてニューモスクへ。
とにかくモスクだらけ。
信仰の場のモスクにこんなことを言うのは失礼だが、どれも同じに見えてしまう。
アヤソフィア前で待ち合わせていたのは、パイネ国立公園で一緒にトレッキングした台湾人夫婦だ。ブエノスアイレスで別れてから3ヶ月ぶりの再会。
この旅で出会った人たちの中で一番の友人。久しぶりの再会を喜びあう。
彼らに会うために、モンテネグロから一気にやってきたわけだ。
一緒にブルーモスクへ。
ここはとにかくデカイ。口がぽか~んと開いてしまう。
イスラム教の祈りの場なのでとても厳しい感じかとおもいきや、記念撮影大会が始まる。もちろん熱心に祈っている人もいる。
ちなみに女性は髪の毛を隠さなければ入場できない。ブルーモスクではスカーフを貸してくれたが、他のモスク巡りをするならば自分で持っていたほうが良い。
あと、ここでは短パンやノースリーブなどの肌を露出した服装は男性でもダメ。でもご安心を。腰巻きを貸してくれる。
モスクに行くならば、それなりの格好をしていくようにしよう。
台湾人夫婦とケバブパ-ティー。意外とこの辺は外食が高いので、結局ケバブになってしまう。久しぶりの再会で旅の話が弾む。外国人とここまで仲良くなったのは初めてだが、仲良くなってみると意外に普通だったりする。
3日間過ごしたイスタンブール。
思っていたよりずっと都会だったのはびっくりしたが、路地に入るとイスラム圏らしい雰囲気が楽しめる。
メフメット2世の山越えルートを実際に見れたことが何よりも嬉しかった。こういう雰囲気はさすがのGoogle Mapsでもわからない。
さあこれからは、トルコ国内を周ってみよう。