SIGMAfpと石見銀山スナップ~カラー

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Camera : SIGMA fp
Lens :Leica summicron-R50mm

今回は石見銀山、とにかく暑い日でした。

おかげで人っ子一人いない、世界遺産貸し切り状態!

中盤から「TealandOrange と写真の演出」についても書いています。

 

石見銀山、夏

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35℃、うだる暑さ、SIGMAfpとプラウベルマキナ67をぶら下げて。

 

 

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こう日差しが強いと、ライブビューで細かい露出を全体像とともに確認できるのは助かる。

そしてsummicron-R50mmの開放のシャープさは本当に良い。

 

 

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ちょっとオーバー気味の方が暑さが演出できる?

 

 

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マスクと日傘、2020年の夏

 

 

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石見銀山は古い町並みが残っているので、ちょっとした景色が違和感なく異質な空間として存在している。

 

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TealandOrange と写真の演出について

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ここからは、カラーモード「TealandOrange」

演出とは何か?昨今はPhotoshopなんかでHDRゴリゴリの過剰演出でも簡単にできるようになった。

ここで考えたいのが、演出の是非の二元論・・・ではなく、人はなぜ演出したくなるのか。

 

 

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スティーブン・ショアは、写真の表現について「構造に注意を惹きつけるのではなく、それ自体は不可視であるべき」「時代の様相を浮かびあがらせる」と言っている。

構造を理解して初めて、演出を自然に行えるわけだ。

 

 

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突き詰めると写真は演出だ。

僕はショアが言うように、構造の理解こそが重要だと思う。

 

 

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そして構造だけでなく、自分の表現したい何かが「何」なのかを理解したいと思うわけだ。

なんとなく撮っている「なんとなく」も、意識化されたものであり、だからこそそこを撮ったわけだ。

 

 

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演出はどうあれ、この構造と私の理解により構成されているのが写真なのだと思う。

 

 

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理解は感覚的なレベルでも良い、しかし言語化できるまで納得することができればより写真は面白くなるのではないか?

 

 

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TealandOrangeはまさにそんな色をしている。

ノスタルジックだがノスタルジック過ぎず、映画的だが映画ではなく、より生活に近い絶妙な発色だと思うのだ。

 

 

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何気ない構図の中の構成物が、TealandOrangeに惹きつけられる。

確信犯的な演出を受け入れた色になる。

だが自然の節度の範囲内に落ち着く色なのだ。

 

 

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狙いすぎたノスタルジックではなく、そこにあった景色。

 

 

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演出は表現の色付けであるが、構造の基幹部ではない。

しかし構造を理解する上で重要なニュアンスを含んでいる。

より意識・意図が表面化しやすいからだ。

今回のカラー写真は、そう思わせてくれた。

 

 

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以上、SIGMAfpと石見銀山スナップ~カラー編でした。

SIGMAfpはスナップ撮影に最適、軽いし無音で撮れるからテンポが良い。

あと静物をかっちり構図を決めて撮る場合、50mmの単焦点は良かった。

近すぎず遠すぎず、しかし構図は他の画角より絶対的だ。

とにかく暑かったけど、いろいろ収穫のある撮影でした。

モノクロ編はまた後日!

 

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SIGMAfpと「スーザン・ソンタグの写真論」と「流行の写真表現」

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Camera : SIGMA fp
Lens :Leica summicron-R50mm

 

写真の偶然性は、ものみな滅びるということを確証しており、写真の証拠の任意性は、現実とは根本的に分類できないものだということを指摘している。

現実が偶然の断片の組み合わせに要約される。これは世界を扱うのにこの上なく魅力的で、痛烈に縮小してしまう方法である。

スーザン・ソンタグの『写真論』より

 

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スーザン・ソンタグは人間の記憶自体が、写真の登場によって変化したと説いている。

 

tabing.hatenablog.com

 

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さらに現代は、写真で記憶する行為自体が、現実=自然への対峙としての立場となっているように思う。

あらゆる情報が手軽に記憶でき、インターネットという情報世界で酸素のように消費されている。

そこには大切な記念写真もあれば、暇つぶしの写真、そこにいたという証拠写真、こうありたいという写真、超個人的な嗜好写真、広告写真、それが乱雑に大量に存在している。

 

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それが当たり前の現代において、写真という記録方法は単なる記録ですらなくなっている。

写真の登場と大衆化により「記録するために」という行動原理が生まれたのだ。

観光地や珍しい何かを撮りに行くために、人は行動するようになったのだ。

 

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現代ではそれに「共有」したいという欲求が加わり、写真や動画での情報量が桁違いに溢れるようになった。

それは人間の欲望を利用した商売であり、だからこそそれだけの情報量が陳列できる場が用意されている。

 

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そうなると、膨大な情報の海の中の一枚の写真は具体的な情報を含んではいるものの、誰もその中までは気にしなくなる。

なぜなら次から次へと同じような情報が押し寄せるからだ。

「偶然の断片の組み合わせに要約されることで、世界が魅力的にかつ縮小される」と言ったスーザン・ソンタグだが、もはやその壁すら情報の波は打ち砕いた。

 

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情報は世界の断片ですらなくなり、情報の断片の断片となってしまったのだ。

「世界を内包した情報=偶然の断片」が情報の断片の断片にまで細分化された。

原子レベルまで情報量が削ぎ落とされた写真は、もはや従来の写真ではない。

もちろん写真と情報の関係は一切変わっていない。圧倒的な物理的情報量により、写真の概念すら凌駕したのだ。

 

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だからなのか、逆説的にインターネットの世界では似たような写真で溢れている。

皮肉にも人間がビックデータから学んだわけだ。

写真は情報であり共有することに価値があり、だからこそ記録する。

これが現代の写真なのだ。

 

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膨大な写真の見えるビックデータでは、共有価値が無ければ無意味なのである。

共有価値を上げるには、手っ取り早く感情に訴えかけるものが良い。共感性のある写真だ。

それが写真の見えるビックデータ内で、空間的シェアを奪い合い争っている。

だからこそ、共感できる共有価値の高い写真=流行になり、世界は同じ色で塗りつぶされる。

 

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写真が端的に経済原理によって増加したことにより、皮肉にも同質的な写真が爆発的に増殖せざるを得ない集団心理を生んだ。

その増殖率は、写真データ総量の増加率を超える速さで増えている。

要するに価値のない写真は淘汰され、そして大量消費されているのだ。

写真は経済的動物として生まれ変わった。

 

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写真は経済的動物としての、種としての繁栄のために煩雑な多様性を棄て、経済合理化したのである。

その結果が陳腐化なのか、それともさらなる飛躍を生むのかはわからない。

だが、これは人間という種と同じ道をたどっているように思う。

 

 

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人間は多様化と自然淘汰を官僚的に調整し、経済原理によって種を統制する道を選んだ。

そのおかげで70億もの人口を抱え、地球の主に躍り上がった。

その挙げ句の果てが、先進国の少子高齢化である。単純に人間は増えすぎたのか?それともこれすら経済原理によって突き動かされているのだろうか?

この「挙げ句の果て」は簡単な二元論では言い表せないだろう。

 

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結論、写真も人間化したのだ。

人間はパンダにはなれない。人間とパンダのどちらが幸せかというのは非常に乱暴な分類分けだが、中国の山奥でひたすら笹を食い続けるパンダにはもうなれない。

写真はたくさんのパンダがいたが、自然淘汰されて人間化した。

同質的な写真は批判すべき対象ではない。僕はその誕生の瞬間が知りたいのである。

 

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過去においては、現実に対する不満は別世界への憧れという形で表現された。

近代社会では、現実に対する不満はこの世界を複製したいという憧れによって旺盛に、また憑かれたように表現されるのである。

まるで現実をオブジェの形で、ー写真の位置からー眺めることによってしか、それは真に現実的、つまり超現実的ではないかのようである。

 

写真論

写真論

 

 

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SIGMA fpで海をスローシャッター撮影してみた~人間と自然と解釈について~

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SIGMAfpは、コンポジット低ISO拡張機能を使って「ISO6」での撮影ができる。

 

詳細はこちら

ISO6ともなればNDフィルターを使用しなくても、スローシャッター撮影ができてしまうのだ。とっても便利!

今回は海でスローシャッター撮影してみた。

 

 

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夕暮れの海の浜辺。

F16まで絞れば、ISO6だと5秒くらいのスローシャッター撮影が可能。

完全に静謐な世界になるのではなく、僅かに波のうねりや色の濃淡が出るのでかなり好みの写真になった。

 

 

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印象派の油絵っぽくなるね。

スローシャッターなので全体的な光がフラットになる。

この均一な空間は、自然界ではありえないわけで、だからこそ表現としては面白くなるのだ。

 

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夕日の反射している部分を撮る。

スタジオで撮ったような均一で人工的な光の中で、ありのままの世界を人間の目ではありえない時間軸で写真にする。

これは、機械による自然環境の歪曲なのであろうか?

ことポストモダニズム以降、西洋哲学的な「自然への上から目線」が否定的なニュアンスで取られやすいので、この写真は人間中心主義的な人工表現に見える。

しかし、ありのままの世界を人間では意識できない視覚的表現にする=自然な時間任せだと僕は捉えている。

 

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なんせ結果が出るまで、どうなっているかさっぱりわからない。

何枚も撮っていると、ある程度予想はできる。だがそれは技術的なレベルであり、天気予報みたいなものだ。

あるがままの世界を、ある時間という絶対的な制限の中に委ねる。

これがスローシャッター撮影の楽しさだと思う。

 

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目の前の状況を自分で見ておきながら、結果がわからないのだ。

これは世界への敗北であり、人間らしい戯れであると思う。なんせそれを撮っているのはカメラだからだ。

 

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カメラは絞りとシャッター速度により、光を抑え込む捕獲容器である。

多少の誤差はあるが、基本的に人間が得る視覚情報に近づけるために設計されており、だからこそ記録する価値がある。

しかし、スローシャッター撮影はそれとは違う。

これは「遊び」だ。

こういう遊びを楽しめるのは、人間だけだろう。

 

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人間は自然を解釈する。

その解釈方法は少々強引で、たとえば犬を「犬」と解釈すればチワワだろうがゴールデンレトリバーだろうがすべて「犬」となる。

日本人は蝶を見て美しいと感じるが、蛾を見ると気味悪がる。でもフランス人は、蝶も蛾もパピヨン (papillon)で区別はない。

でも1+1=2であるし、店に並んでいるリンゴと自宅のテーブルの上にあるリンゴは違う。

「人間」が運転している「車」であるから、「信号」が赤になれば止まるだろうと思って生きている。

他の生物は、この解釈の基準すらわからないだろう。

なぜなら当の人間でさえ、深く考えてもいないのだから。

 

スローシャッター撮影により生まれた写真は、ある意味究極の偶然である。

そこに人間はユーモアと好奇心を感じ、新しい解釈を行う。

この奇怪な行動は、人間らしさの象徴でもあるのだ。

 


SIGMA fp +Leica Short film『sea』

動画でも海を撮っています。

 

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