SIGMAさんに動画を作ってもらいました
濱崎鉄人 × SIGMA fp fpにLeicaレンズをつける理由
YouTubeチャンネル「SIGMA Station」にて、僕がSIGMAfpとLeicaレンズを使って撮った写真の動画を作っていただきました。
SIGMAfpの「リアルユーザーさん語り」の第2弾という位置づけです。
このような経験は初めてですので非常に緊張しましたが、表現の発信が新たな出会いと経験を繋いでくれたという事実に、改めて表現を発信することの意味とインターネットの凄味を感じました。
10分ほどの動画ですが、1ヶ月以上かけて入念に作り込んでいただき、動画に対しては感動しております。
強いて言えば、自分の地声がジェイソン・ステイサム演じる山路和弘っぽいと思っていたのが全然違ったという現実に微量のショックを受けたということくらいでしょうか。
動画の内容は、SIGMAfpとLeicaレンズを使うことについて、そして昨今の僕の写真に対する思いをまとめたものになっています。
これはこのブログの記事を元に構成されています。以下にちょっと動画の概論を書いてみます。
ちょうど1年前くらいから写真を撮る意味が感じられなくなっていました。
もちろん家族の写真のような記録写真は意味を見出だせていましたが、それ以外はカメラを持つ機会がどんどん減っていました。
何故写真を撮るのか?それを考えたとき、主体的な撮影がしたいという気持ちになり、フィルムカメラを手に取りました。
フィルムカメラは面白いもので、一枚の写真を撮るためにかける意志が強く、より写真について考えることになります。
そこからたくさんの写真関連の本や写真集を読み漁り、そして手にしたのが『なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集』でした。
この本は本当に衝撃的でした。写真に人生をかけ、写真に取り込まれた人間の狂気が書いてあります。
詳細はリンク記事をご覧ください。
フィルムカメラで主体的な撮影の楽しさを知り、中平卓馬の著作を読んで写真の狂気を知り、そして手に取ったのがSIGMAfpでした。
これは当然の帰結であり、現在市販されているカメラではもうfpしかないでしょう。
fpにLeicaレンズを付け、撮り始めたのが中平卓馬のいう「あるがままの世界」の写真です。
ですがこれがまた難しく、狂気の淵から中を覗き見ることしかできません。
中平卓馬の狂気とは、撮影行為自体の否定だったわけです。撮影者の存在自体が矛盾であり、全てを破壊した先には死しか待ち受けていないのです。
そこで救われたのが鈴木理策の写真集でした。
中平卓馬の思想を受け止めながら、あるがままの世界を脱構築した主観的な写真、それこそ現在の僕が求めていたものだったのです。
動画の内容は、以上の記事を元に構成されています。
最近はスーザン・ソンタグの批評、スティーブン・ショアや深瀬昌久の写真集、挙句の果てにジョン・シャーカフスキーやロザリンド・クラウスにまで食指を伸ばして日夜禅問答しています。
その果てのない道であるという事実こそ、写真の面白さであり醍醐味なわけです。
上記リンク記事を読んでもらったらおわかりだと思いますが、僕は脳内に溢れ出る思考をゼリー状に固める作業がとにかく苦手でして、今回もまとまりのない原稿をなんとかわかりやすく調理してもらったのはいうまでもありません(笑)
ですが今回の写真という媒体を通して、今までにない体験ができたという事実は、僕の人生でも大きな出来事でした。
最後に、お世辞抜きでSIGMAfpは良いカメラです。デザインと設計思想を共有できる人であれば、これほどしっくりくるカメラはないでしょう。
これからもfpと共に写真とは何か?を問い続けていこうと思います。
SIGMAfpとLeicaレンズで撮るモノクロスナップ~写真の時間的価値について~
Camera : SIGMA fp
Lens :Leica summicron-R50mm
スナップ、それは何もないところに物語を無理やり作る行為。
写真を学ぶ上で、絵画の知識が必要だと痛感したのはつい最近。
結局、写真の『表現』については、先輩格でありより複雑な絵画の歴史が手助けになる。
なんせ絵画は無地のキャンパスに0から表現することになる。
その技法の歴史や文化の違いによる表現方法の差異を学ぶことで、写真という0ではない1からのスタートという媒体を探求できるんじゃないか?と。
写真の発明は、記録という役割を絵画から奪い取った。
それに対して、一部の画家の皆様は喜んだわけだ。
「これで好きな表現だけに集中できるぜ!」
絵画も写真も「記録」と「表現」の2つの役割がある。
なぜ人物画やポートレートがあるのかを考えれば良い。
芸術作品は食えないのだ。
そこで絵画にはパトロンが必要なわけであり、写真屋さんはスタジオで記念写真を撮る。
だが技術の進歩で絵画も写真も軽量な道具で手軽に行動できるようになると、人々は世界へ飛び出したのだ。
そこで表現が躍り出る。
大衆化によりトライ・アンド・エラーが繰り返され、大衆化により一歩抜きん出なければならない事情が生まれた。
印象派はそんな時代の波の中で生まれる。
印象派はそれまでのアカデミー的なお約束を発展的破壊工作により爆破し、表現にパラメーターを全振りしたのである。
一見稚拙なゴッホの絵に人々が圧倒されるのも、表現という内省的な世界の表現だからこそ共感が生まれたからだ。
写実的な作品は技巧に驚かされるが、ゴッホやピカソの作品を見た時とは違う「おとなしい反応」となってしまう。
写真はというと、絵画の破壊と創造の歴史を踏襲しつつ、その中でまた破壊と創造を繰り返している。
写真はまずそこにあるものを撮る。撮ればそのまま写る。だからこそ記録としての利便性は絵画を圧倒している。
写真の表現は、その「ある」を「あった」とした後であるという確認を要する。
無意識的に写真はそこにまずあったということが絶対に否定できないのだ。
だからこそ、絵画のような無から生まれた一点物という世俗的な価値には劣る。
しかし皮肉なことに、長い絵画の歴史により人間の脳に刻み込まれた美的感覚は絶対的な価値観として君臨している。
そこで絵画的技巧を再現する写真というのも一興だが、写真にしかできない表現を追い求めると、それは『スナップ』ではなかろうか?
ブレッソンの決定的瞬間こそ、写真の表現の極致なのだ。
決定的瞬間をリアリズム的に記録することは、まさにその瞬間があった、しかもバタフライ効果並みの複雑系の景色の一瞬を切り取った、「あった」の一枚。
この時間の価値というのは、人類が共感できる最も概念的な感覚の一つである。
スナップは、その一瞬にごまかしきれない偶然すらも支配したという人間の偉業であり、再生産ができないという機会の一点物なのだ。
この時間的な価値は、絵画で全く同じものを描いたとしてもたどり着けないだろう。
スナップは写真の記録という役割をこれでもかと魅せつけながら、それでいて表現の範疇に押しとどまっているのだ。
なのでスナップには人物が必要不可欠である。
今回の僕の写真は景色だけであるが、スナップで評価されるのは都市であり人物なのだ。
都市の蠢く人間を制圧した瞬間としてのスナップ写真こそ、人々に強い共感を与えるのである。
だが僕は景色のスナップが好きだ。
正直、スナップと言えるのかどうかはわからないが、車や徒歩で移動しながら気に入ったところを撮る。
特にテーマはなく、そこに「ある」ものを撮るのだ。
その中で気にかかるのは構図だ。
僕の好きな写真というのは構図がしっくり来る写真である。
その瞬間をしっくり来る構図で撮る。そこには単純な黄金比ではなく、光や時間や撮影時の感情まで含めた広義の構図。
その瞬間の自らの感覚を表現する少しゆったりとしたスナップ。
スナップには時間と主観という天秤があるように思う。
「時間」は決定的瞬間であり記録的な価値に重きを成し、「主観」はその奇跡的な瞬間を選択した自分の感覚に価値がある。
ということで今回はモノクロスナップでした。
僕はスナップの場合はモノクロが好き。
何でだろうと思っていたけど、今回の記事を書いていて思ったのは「スナップの時間的な表現に色は不要」(※個人的に)なのだ。
時間的な価値を踏まえると、色は少々脂っこい気がするからかな。
写真と時間の関係も考えていきたいと思うのであった。
写真を撮る人にもおすすめな本。
SIGMAfpと石見銀山スナップ~モノクロ
前回に引き続き、石見銀山。
今度はモノクロ編です。
Camera : SIGMA fp
Lens :Leica summicron-R50mm
モノクロ写真とは何か?についても書いています。
モノクロで撮ると、観光地であっても観光写真ではない「あえて」な写真ばかりになってしまう。
まだカラー写真が大衆化する前、写真は記録も表現もすべてモノクロ。
そして現代人の感覚では少しわからないのだが、1970年代にカラー写真が一般的になってからでも、表現写真=モノクロだったらしい。
芸術ならカラーでしょ!と今の僕なら思うのだけれど、ウィリアム・エグルストンやスティーブン・ショアが世に出るまでカラー=素人だったらしい。
なぜだろうか?
まず言えるのは当時のカラーフィルムの品質が良くなかったこと。
たしかに当時のカラー写真を見てみると、ざらついた感じに褪せたような色だ。
まあ、今はあえてこのチープな感じをわざわざPhotoshopで拵える人までいるんだから、そこが写真の面白さでもある。
記録という視点に立つと、カラーの方が純粋に情報量が多い。
「あ、お気に入りだった赤い服だ」みたいな。
スーザン・ソンタグの「写真論」でもあったとおり、この時代から人間の記憶=写真になった。
カラー写真は記憶の補助から記憶そのものになった経緯の象徴でもある。
何かの記念の度に写真を撮り、観光地でも写真を撮り、遺影用に写真を撮るようになったのだ。
とりあえず撮る。
人間は自分の記憶よりも写真という情報から自らを知る。
物心つく前の自らの姿を両親の記憶から抜き取ることは出来ないが、写真を指差して「これが3歳のあなたよ」と言われれば納得ができる。
カラー写真が非芸術だと蔑まれたのは、当時の写真家たちのプライドだったわけだ。
今だってこれだけデジタルカメラやスマートフォン全盛期なのに、お硬い写真賞の上位作品はフィルムばっかりだ。
カメラがモノとして大衆化し、さらに必要最低限のツールにまでなった今、このカラー・モノクロ論争が不毛な争いに感じてしまう。
それくらい写真は人間と同化しているのだ。
その自覚、これがあるかないかだけでも写真に対する感覚が極端に変わってくる。
「人間とカメラの同化」を、陳腐化と見るか、飛躍と見るかは置いておいて。
この時代のあえてのモノクロとは、そんな経緯がある。
モノクロで撮るということは、「あえて」でしかありえない。
Leicaはそこら辺をよ~くわかっていて、モノクロしか撮れないカメラを出している。
モノクロしか撮れないデジタルカメラが100万円とかする。
でも、Leicaはよ~~~~~くわかっている。
だからこそLeicaなのだ。
※NIKONがFとかF2とかF3の外観そのままで、モノクロ専用機出せば馬鹿売れするのに・・・
「あえて」をあえてする人だからこそ、あえてモノクロ専用機を買うだろうというマーケティングこそ、現代写真が何たるかをLeicaがご存知なのが明白な証拠だ。
モノクロで撮るということは「あえて」の世界を撮るという行為なのだ。
この「あえて」とはまさに記録という写真の前提へのアンチテーゼなわけだ。
「あえて」の世界とは、記録するだけの世界=情報化社会の歪であり、バナナの黒いところだ。
情報化社会に寄与し、大きく依存しているのが写真であり、だからこそモノクロは情報の主流ではない暗部を浮かびあがらせる。
もちろんモノクロ写真も情報であることには変わりがないが、撮影者の意識の問題である。
なぜならこのご時世、情報から逃れる術はない。なんせ人間が情報化されているのだから。
情報化する際の価値である情報量をあえて吐き捨てることで、モノクロ写真は単なる記録ではなくなる。
ここにこそ、モノクロ写真の存在意義がある。
情報化社会への反抗こそが色を捨てるという行為であり、情報らしくない情報を拵えることで、情報化社会へ流されている自らを啓蒙しているのだ。
森山大道や中平卓馬のプロヴォークが持つアナーキーさが万国共通で評価されたとおり、情報化社会への反抗という一分野は確かに存在する。
中平卓馬がモノクロ写真のアレブレボケを辞めたのは、そのカテゴライズが気に食わなかったんじゃないかなと思う。
要するに、モノクロ写真は楽しいのだ。
モノクロで世界を見ると、「あえて」の世界へと没入できる。
カラーな世界にはないバナナの黒いところを探し、せっせと街を徘徊する。
行きたかったなあ~
カラー編はこちらだよ。