SIGMAfpとLeicaレンズで『あるがままの世界』を動画にする

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最近の僕の写真撮影のテーマ『あるがままの世界』

中平卓馬の「なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集」を読んだのが原因なのだが、おかげさまで撮影行為に対する終わりなき試行錯誤に突入している。

テーマや哲学を持って撮影をしなければならないという意味ではなく、「なぜ写真を撮るのか」と「なぜこれをこう撮るのか」を否応にも言語化できる程度にまで認識できていないとむず痒くなるのだ。

この「むず痒さ」が表現の歴史であり、あらゆる人間の行為にいつでも棲み着こうとする危険な欲求なのである。

これが極まると中平卓馬のようになってしまうのだが、要するに脳の進化のように反射→意識化→言語化のような面倒くさいプロセスが無ければ写真が撮れなくなってしまったのだ。

これが真理の探求という歴史上達成できた例のない人間の業であり、数多の表現者が妥協か死かを突きつけられて苦悶したアレの初歩的段階である。

 

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この動画の写真版はこちら。

写真は動画よりも難しい。それは動画のほうがチョロいという意味ではなく、単純に情報量が少ないからだ。

一枚の画像に「あるがままの世界」を定着させる過程における言語化作業は、情報量が少ない故に認識過程の言説を削ぎ落とさなければならない。

要は説明臭くできない、だからこそ写真家は苦悩するのである。

これを写真集や展示という形式、たくさんの写真を並べることで回避することもできる。一枚の画像を多様に並べることで、情報量は増加し、その配置という空間的な言語化も可能となるからだ。

これが何を表すかというと、結果ではなく、結果のための撮影行為にテーマや伝えたいメッセージを持たせることができる。

だからこそ、撮影行為に意味が生まれる。

この意味のおかげで、「なぜ写真を撮るのか」「なぜこれをこう撮るのか」への返答としての記号的な情報のパーツが手に入る。

あとはそれをブリコラージュすればよいわけで、その過程に批評性が生まれるわけだ。

だから「語れる表現」とは要するに、表現の産みの苦しみに意味があったという宣言でもある。

 

だが、中平卓馬はこのナルシシズムの隠蔽を批判したわけだ。

これは表現者と批評家の妥協的確信犯的談合なわけで、要するにメディア化であり広告商品になるという宿命がある。

中平卓馬は意味という記号を、どうにかして「ありのままの世界」という存在だけで構成しようと思ったのだ。

そこには「世界と自己」だけがある。

 

でもそんなのは不可能なのだ。

なぜなら世界と自己の間にカメラという技術がなければならず、カメラは非自然的なものであり、数多の制約がある。

カメラでしか表現できないのに、カメラが制約になってしまっているという矛盾。

これを中平卓馬は超えることができなかった。

世界と自己との対峙には、何かを介在しないと成立しないのである。

 

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中平卓馬の苦悩の歴史を知ると、どうも今までのような何気ない写真撮影ができなくなる。

これは中平卓馬が指摘したナルシシズムに気づいたぜというナルシシズムである。

そこで鈴木理策の写真集から「あるがままの世界の知覚」という戦略を勝手に『理解』したわけだ。

知覚の再現という手法は、中平卓馬が否定した写真から2つ降りたくらいの感覚で、僕の性に合っているように思う。

中平卓馬が全て正しいとは思っていないが、おそらく言語化する過程と納得できるポイントのベクトルが近いのではなかろうか?

 

なんて思いながら動画も撮ってみた。

動画は写真とは全然違うので、今までの手法を動画バージョンにすればよいという簡単な互換性はない。

今回は写真のように画角を固定したままで、その場の景色を眺めるように撮ってみた。

ブナの森を撮ったのだが、風がほとんどなかったので、静止画に自然音を載せたような感じに。

だがこれも良い。

 

動画は情報量が多く、さらに勝手に時間が進む。

ということで、没入感があるといわれるが、逆に言えば「考える隙がない」のだ。

写真と違い、時間の強制力がある。

要するに、作り手の主導権が強い(見てもらえるなら)

そのため、情報量の強弱の操作が重要なのではないかと思った。

映画の手法も情報量の強弱で抑揚をつけ、あるイメージへ誘導し続ける。

 

しかし、今回は文字通り「あるがままの世界」を動画にした。

もちろん純粋な意味での「あるがままの世界」ではない。構図や時間は超主観的かつ技術的な制約の影響を受けている。

だが写真と動画の中間みたいな映像は面白いとも思った。

動画で「あるがままの世界」を突き詰めると、定点カメラによる無限動画になってしまいそうだけど。

今回は写真と動画の特性を考える良い機会になった。

写真は有限のフォーマット内での停止した情報であり、動画はそれを羅列した情報の連続の総称、そこにどんな意味を見いだせるか、これまた楽しそうだ。

 

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そんな意味で、SIGMAfpは写真と動画の行き来が非常にスムーズ。

写真も動画も高レベルな撮影が出来つつ、コンパクト。

写真も動画もJPEG/MOVでの撮って出しだが、現状の僕が表現したいレベルがコンパクトなボディですべて堪能できている。

しかもLeicaレンズでこれが楽しめるのだ。

動画撮影は機材が増えるので、このコンパクトさはとてもありがたい。

さらに、動画を追求しようと思えば、それに答える(経済的に)恐ろしい拡張性を持っている。

SIGMAfpを買ってから、もう高機能だが重くてでかいカメラには戻れない。

そこのトレード・オフの感覚は、妥協ではなく必須になってしまった。

それはSIGMAfpのコンパクトなボディが、コンパクトさを売りにした単純な軽量化ではないからだ。

この大きさは、今まで述べた全てに対応するためのデザインであり、大きさと質量自体がデザインの構想内なのである。

「小さくて経済的に」が日本製品のアイデンティティであったが、SIGMAfpはそのアイデンティティを『採用』していない。

SIGMAfpのデザインの取捨選択は、主体的な撮影を好む僕のような輩にはグッとくる。

この「グッ」こそデザインなのだなと思った。

iPhoneがなぜ「ググッと」くるのか?ポルシェ911のお尻がなぜ「グググッと」くるのか?LeicaM3を手に取った時の重みが「ググググググググっと」くるのは何故なのか?

SIGMAfpは『グッ』がたくさんあるカメラなのは間違いない。

 

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SIGMAfpについての考察 

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